自分の人生は自分で選択するという感覚
私は、30歳そこそこで、両親を亡くしていますし、一人っ子ですから、近しい身内というものがなかったのですね。
仲良くしているおじ・おばが、遠いところにいましたが、日頃より頼れる訳もなく、両親を亡くす過程で、「木下家のことは、私が最終決裁者である」という-木下家は当時、自分一人しかいなかったのですが-変な覚悟ができていました。
決してバカじゃなかったんでしょうね。他人に頼ることも覚えましたから。
私は、今にして思えば、「芯はあるが、やにかわいげがある」人間だったと思います。
これは、両親を若い時期に亡くして、人生を生き抜いていくためには、他人に頼るしかない、他人に頼るためには、「かわいげが必要である」と、どこかで気付いていたからだと感じるんですね。
でなければ、いくら両親を早くに亡くした(かわいそうな)若い青年であっても、そして、いくらお見合い文化が残っていた時代背景であっても、縁談が、13方面(人)から来ることはなかったでしょう。
結婚を決めるに当たっても、最終的には、自分一人で決めるしかないと考えていましたから、先の「木下家のことは自分の胸先三寸で決まる」という覚悟ができていたのだと思います。
母親は、気性の激しい人で、いつも戦っているようなけんかっ早い人でしたから、私は、育てられている過程で、ほめられた記憶が全くと言っていいほどありません。
※親戚の間では、母親は「軍鶏」のようだ、と言われていました。
父親は、気の小さい人で、すぐ折れるタイプでしたから、こういう夫婦だから、結婚できたんだなと、今はわかります。
※両方が強かったら、けんかの上別れますし、両方が弱かったら、社会性がなくなり、自滅します。世の中、そういうもんです。
私は、なんとなれば、父親のような優しい面と、母親のような合理性とを受け継いでいるような気がします。
ある人事コンサルタントには、性格診断の結果を受けて、「知能面で賢いのに、優しく、思いやりのある性格なのは大変珍しい」という指摘を受けた記憶があります。
でもね、人生を上手に生きていくためには、その過程で学ぶにつれ、結局は、利他主義(“for you”の精神)でないと、行き詰まることを知るようになって来ましたしね。
その中でも、どういう訳か、誰に教わった訳でもないと思うのですが、自分のことは自分で決める(決めようと考える)習性があります(した)。
保育園の最年長の頃、絵画教室に行くと決めたのも自分のようであり、7年通った末、辞めると決めたのも自分であり、小6から、こたつを囲む個人が行う英語教室に通い、高校合格を機に、辞めると決めたのも自分であり、その後の大学受験の志望校選択も、家族にそそのかされたことは一切なく、当時の都立高は受験指導などの生徒への関与が全くなかったので、これまた全くの自分でした。
ただ、母親は、大魔神のように、常に怒っていましたが、私のことはどこかで信用していたようです。
そうして思うと、私には、自分で人生の選択をするように見せかけて、実はうまく誘導されていたのかもしれませんね。
そうだとしても、自分で自分の人生を選択しているのだという感覚が、事の大小はともかく、私の中にはあります。
もしかすると、こういう感覚は、世間の顔色ばかりうかがう人の多い日本人の中には少ないのかもしれませんね。
世間基準でどうとか、他人がどう思うかとかより、小さなことでも自分で自分の人生を選択して生きていく、その方が、人生への後悔がずっと少なくなると思いますよ☆彡。
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