「渡る世間に鬼はなし」はおそらく本当
ドラマの影響で、「渡る世間は鬼ばかり」と覚えている人が多いようですが、格言としての正確な表現は、「渡る世間に鬼はなし」です。
これは、「世の中には冷たい人ばかりではなく、困っているときには助けてくれる優しい人もたくさんいるよ。」という意味なんですね。
この逆の意味の格言は、「人を見たら泥棒と思え」で、「人はまず疑ってかかれ」という教えです。
前者が「性善説」で、後者が「性悪説」であると言えば、わかりやすいでしょうか。
ちなみに、オレオレ詐欺などの特殊詐欺に遭いやすい人は、後者の「人を見たら泥棒と思え」タイプらしく、人をとりあえず疑ってかかるものの、巧言に乗せられやすく、いったん信じてしまうと、とことんだまされてしまい、お金を提供してしまう傾向があるのだとか。
※ちなみに、孔子の言葉で、「巧言令色鮮し仁」(言葉巧みで表情をとりつくろっている人は、かえって仁の心が欠けているものだという意味)がありますが、まさにこういうことを言っていると思います。
反対に、前者の「渡る世間に鬼はなし」タイプは、基本的に人を善人とみなしていますが、それ故に、怪しい人・危険な人への嗅覚があり、その手の人物には逆に引っかからない傾向があるのだとか。
「渡る世間に鬼はなし」タイプの人は、他人に支援を頼める人と言うことができます。
実は、人間の精神的な成熟度合いを測るものとして、「他の人に支援の要請ができるかどうか」という視点があります。
あるテレビ番組で、かたくなで世間から孤立している、とある職人の方が、自分を変えようと、一大決心のうえ、山伏の修行に詣でて、自分の至らなさに気付き、以後、他人とのつながりと感謝の精神を身に付けたという話をやっており、その修行の前後での表情の変化には、「暗から明へ」と言ったくらいの大きな差異があり、私は感銘を受けました。
人間は、社会的動物ですから、決して一人では生きられませんが、困ったときでも、助けをなかなか求められない人というのはいるものなんですね。
社会的に困窮している人を救済しようと活動している人たちの話をラジオ番組で放送していましたが、「困っている人とは、“困った人”である。」と言っていました。
その心は、本当は、支援を受けなければ、生活すらままならないはずなのに、その支援に対しても、「××がダメだ。△△がなっていない。」と逆ギレするなど、支援を受けることがなかなかできない「支援受け入れ困難者」=「困った人」とでも言うべき人が多いことと伝えていました。
実は、支援を受け入れられるというのは、ある種の人間としての余裕であり、「日頃より、何かしらでも、他の人に与えることができた経験がベースになっている。」と言われています。
キリスト教の聖書のマタイによる福音書でも、「求めよ。そうすれば、与えられるであろう。」と教えていますが、実はこれは、支援を受け入れられない人は、心から支援を求めていない人であり、それはとどのつまりはそれまでの人生で何かを与えて来なかったことに由来しているのを示唆しています。
世間からの支援を受け取ることのできる「渡る世間に鬼はなし」タイプの人は、基本的には、ギバー(与える人)であり、テイカー(受け取る人)ではありません。
世の中は、「ギブ⇒テイク」構造となっており、与えていない人は、そもそも支援が回ってこないし、仮に回って来たとしても、素直に受け取ろうと思えないのですね(>_<)。
困ったときには、ある種の自信を持って、他人からの支援を受け入れましょう。これは、他人の善意を信じる力と言えるでしょうね。
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