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ヒスイと糸井川ジオパーク①
(日射量の増大による縄文海進のピークが終わった頃)
約5,500年前~4,000年前に北陸の縄文人は、定住生活を始めました。
金属を知らなかった縄文人は、石を使ってさまざまな道具を作りました。
長者ケ原の集落では姫川流域の石を用いて主に石斧を作り、各地に供給していました。加工の際には硬く割れにくい性質を持つヒスイをハンマーとして使っていたようです。
総務課
広報統計係
ホータン人との遭遇
縄文人は太古の昔からヒスイ輝石からできている硬玉(=ジェイダイト)と、角閃石(透閃石、透緑閃石)からできている軟玉(=ネフライト)をきちんと区別していました。
しかし、海外では1863年に、フランスの鉱物学者によって判別されるまで、混同されていました。
フォッサマグナミュージアム
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タリム盆地の古代都市ホータンから渡来したもの
=群馬県下仁田町歴史館で
2020年6月19日、TOKYOweb
約7000年前にホータンで製作された
ヒスイを愛したミーハーな縄文人
縄文人は様々なアクセサリーを身に着けていました。
とくに代表的なのが耳飾りで、約7000年前(縄文早期末から前期)に登場し、
短期間で全国に広まったようです。
最初は石で作ったホータンの玉器「玦」に似た「玦状耳飾り」が作られました。
山田康弘
昭文社
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北代遺跡で見つかったもの
富山市教育委員会 埋蔵文化財センター
ジェイダイト製のペンダント
ヒスイ産地に近い姫川(新潟県)の河口周辺で、ヒスイの玉つくり遺跡が多く確認されています。
産地から離れた北代遺跡(富山県)は、縄文時代中期後葉(約4000年前)を中心に約1000年間にわたって栄えた、地域の拠点的集落でしたが、その要因の一つにはヒスイのアクセサリー製作の高い技術力がありました。
富山市教育委員会 埋蔵文化財センター
ヒスイは大変硬い石ですが、ヒスイの玉を観察すると管状の錐で直線的に穴があけられています。細い竹と硬い石の粉を使ってあけたと考えられています。竹ひごを使い、きりもみ法で穴をあけた実験では3時間かかって1mmの穴があいたということです。
富山市教育委員会 埋蔵文化財センター
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茅野市尖石縄文考古館
(ヒスイを含んだ)岩石の隆起
約5億年前の古生代以降、海洋プレートが日本を含む中国地塊の大陸プレートに沈み込むと、付加体が押し付けられました。
大陸プレートが、海洋プレートの上にずり上がると、逆断層が生じます。
新しい付加体は逆断層を境にして、古い付加体の下に積み重なっていきました。
約2億~1億年前(白亜紀)になると、付加体が積み重なる時に、ヒスイを含んだ蛇紋岩という岩石が地表近くまで運ばれました。
高橋典嗣
昭文社
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大陸プレートの海側へのし上げられ、
ヒスイは地表近くまで運ばれます。
参考:フォッサマグナミュージアム展示パネル
(1)糸井川の蛇紋岩メランジュ
(2)地質の場所・・・飛騨外縁(隆起)帯
(3)時代・・・白亜紀
(4)地質の分類・・・堆積岩、蛇紋岩(深成岩または、超塩基性火成岩)、
ヒスイ(酸性火成岩)
旧石器人由来のミトコンドリアDNA
ミトコンドリア・ハプログループM7に分類される人は、約5~4万年前に東中国で誕生したグループです。
日本人の約15%が属しており、海の底に沈んだという「スンダランド」に生きた人々の子孫である可能性があると言われています。
縄文人の人骨からも検出されているグループで、日本の社会を形作っていった人々の子孫ともいえます。
ミトコンドリア・ハプログループA,N9については、Rを経由せず、Nから直接分岐していることから、R系統とは別の、おそらく北回りルートで
東アジアにやってきた人たちではないか?
という説があります。
ミトコンドリア・ハプログループN9は、日本人の約7%が該当します。
ミトコンドリア・ハプログループAは日本人の約7%が属しています。
誕生は約4万年前のバイカル湖周辺だったのではないかと推測されています。その後、3万年前~1万6千年前の長い期間は消滅の危機に瀕していたようです。
ミトコンドリア・ハプログループGに分類される人は、北国と深いかかわりがあります。
日本人の約7~10%が属しており、長距離アスリートに多いという特徴がみられます。
旧石器人由来のミトコンドリアDNA
ミトコンドリア・ハプログループM7,A,N9,Gを合計すると、
旧石器人由来のミトコンドリアDNAは、28~31%です。
縄文人由来のミトコンドリア・ハプログループD4b
長野県上高井郡高山村大字牧字湯沢滝沢の湯倉洞窟遺跡から出土した縄文時代早期人骨(約7,920年~7,795年前)のミトコンドリアDNAは、ハプログループD4b2です。
縄文時代(1万6500年前頃)に、ユーラシア東部から(樺太経由で)南下してきました。
幻の「スンダランド」
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2万年前頃からしだいに水没し始めました。
はてなブログさんの画像より
「スンダランド」の海岸線を北上してきた東アジア人
(=南方系・古モンゴロイドの祖先集団)
スンダランドを脱出した人々は持ち前の遠洋航海術を駆使し、フィリピンや台湾へ、さらに黒潮に乗って沖縄、南西諸島へと航海を繰り返しました。
一部は南九州にも到達したとみられます。
読売新聞オンライン
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ネアンデルタール人解放(=考古学におけるリベラル革命)
フィリピンの先住民ネグリトの住んでいるルソン島のカラオ洞窟からは、
2019年に六万七千年前のものとされる新種のホモ族(ホモ・ルゾネンシス)の
存在が報告されています。この人類は、デニソワ人の亜種である可能性もあります。
篠田謙一氏
問題は、ネアンデルタール人の絶滅の原因を探求する際に、
彼らの没落を自明のことと思っていることです。
読者は二十万年間前も繁栄し、驚くべき洗練さを実証したことも思い起こす
べきです。
彼らはホモ・サピエンスと同じくらいの、ときにはそれよりも大きな脳を
持っていたし、個体レベルで現生人類よりも頭が良くなかったという証拠もありません。・・・
ホモ・サピエンスは彼らよりも進んだ組織的集団を後楯にして、彼らよりも
大きな集団の間で知識を共有し合うことができました。
1980年代に新しい年代測定法が使用されると、
主流派によって構築されてきた考古学大系は崩壊しました。
熱ルミネッセンス法や電子スピン共鳴法などがあります。
ネアンデルタール人は、進化の上では私たちの父でも母でのありませんでした。彼らは古生物学上のいとこ、私たちと彼らは、ようやくそこまでたどり
ついた『いとこ同士』だったのです。
「もはや頑丈な骨格のものを、華奢な骨格のものの祖先とみなすことはできない。」
(=ベルナール・ヴァンデルメールシュ〈Bernard Vandermeersch〉+オフェル・バー・ヨセフ〈Ofer Bar-Yosef〉)
リベラルな科学者たちは、ネアンデルタール人の地位を回復するために、
そう主張しました。
古モンゴロイドの大航海
遺伝子時計が信頼できるものなら、日本の遺伝学者である尾本氏、宝来氏、松本氏は、大陸の古モンゴロイドがフィリピン諸島に到来したのは、二万年前~一万年前のいつかであろうと推定しています。この集中的移民が、
それ以前にいたネグリトの上に重なったのです。フィリピン諸島は、したがって、遺伝的な坩堝への道を、早くたどり始めました。