虹の麓が乾く頃
(2015/11 紅楼夢11発行、表紙 ひそなさん(スアリテスミ))
タイトルは「他人の面倒が見られる時期」というようなニュアンスを含んでいると思います。3冊をセットで考える上で、同じようなものばかり出してもつまらないというか、その時点でのそのフォーマットの結論は一冊で提示しきるべきだという自己制約もあり、3種目にしようというところがありました(厳密にはこの間に合同誌を出しているため4種目です)。
それは短い短編集、長編、長い短編集ということですが、真ん中のこれが一番難渋しました。それは単純に2万文字を超える話を書いたことがなかったということです。
テクニカルな問題が解釈と立て付けによって緩和を図られています。エピグラフのマザーグースのラインはThe Beatlesが「You Never Give Me Your Money」で引用しているお馴染みのものですが、それをアリス・マーガトロイドやMiles Davisの「Seven Steps To Heaven」とかけることで、全体を7章立てにして半分連作短編集のように書いてしまおうということです。
前作の「神様がいなくても」の時点で既にそうだったんですが、内容としてはBildungsromanを書きたいという時期にあり、長編という柄を使って腰を据えてやってみようということになりました。その上で一人称というカメラ設定の内部でひねったことがやってみたくて、つまりBildungsromanと言いながら、この話の中で顕著に変化するのはアリスではありません。
この題材は創想話で最初の頃に書いていた2つの話のリベンジのようなところがあります。「さよならファービー」と「スコール」で、特に前者は振り返るのがかなり厳しいです。1つ目はあまりにも皮相的で話にならず、2つ目はそれほどひどくはありませんが単純に設定的に古くなっています。鈴奈庵が出てきて解像度が上がり、自分も少なくとも後から見返して自分でうんざりしないものを書けるようになってきて機が熟したというところです。
前作から出てきた構造への執着は、短編集でないため外部に凝る部分が少なかったこともあって、内部へと流れ込んでいます。図書館と、内部の人間関係における入れ子構造がそれです。内容を前提として構造を考え、構造を前提として内容を熟成させ、という比喩の反復ですべてが進んでいくようになりました。ホールが良ければ良い音が響くし、良い音が出せそうならそれに合った良いホールが想像できるという話です。
長編は結局語り口のテクスチャーに馴染みを持ってもらえないと遠くまで走れないし、途中で語り口の車線変更ができないので、そういう意味での制約が大きい気がしています。曲芸飛行の長編はすぐに飽きてしまう気がするというか。単に習熟の問題かもしれませんが。