東京を生きる
雨宮まみさんの訃報を今さら知った。
私は彼女の著書を読んだこともないし、「こじらせ女子」というタームと名前がかろうじて結びつく程度の知識しかないけれど、いろんな人たちの哀悼の言葉を読みながら、ああ、この人はきっと、何年か先になっても、事あるごとに「雨宮まみさんならこう言っただろう」って言われる、ナンシー関みたいなレジェンドになったんだなーって思う。
でもだからと言って、それが羨ましい、とはあまり思わなかった。他人の思い入れほど重たいものはない。
「まともな人間は、他人に愛されることをキモいと思うものなのだ」と、誰かがどこかに書いていた。けーぽのドルヲタなんてことをやりつつ、私はものすごくこの文章に共感したのだ。赤の他人の思い入れほど重くてキモいものがあるだろうか。たいていの人は他人に不遜に思われたくないから、はっきりそうは言わないだけだ。
雨宮さん絡みのニュース記事を読みながら、飯島愛さんが亡くなったあとの反響を思い出していた。あの報道の直後、あまりにも多くの人たちが「私のことをわかってくれる人」「私そのものである人」として愛ちゃんの存在を必要としていたことに、私はかなり驚いた。
それから、テレビでは「我こそは本当の飯島愛を知っている」的な芸能人や文化人たちが次々と参戦しては、彼女の思い出を語るというターンが延々続くようになる。
それでなくても芸能人のお葬式というものは、そんなに仲良かったんかいな?と疑いたくなるような人たちまでいそいそやってきては故人との思い出を語りたがるので、なんだかなぁ、と思うんだけど、飯島愛について語る人たちっていうのは、そういう売名っぽさとはどこか違う次元で、何かに取り憑かれたように「本当の飯島愛」について語るのだ。
そういうものが目に入ると、どこかもじもじと居心地の悪い感じがした。俺たちの、私たちの飯島愛ちゃん、という他人の想いをひたすら受け止めているあの器ってなんなんだろう、と思った。
あれから10年近く経って、今また俺たちの、私たちの雨宮まみさん、という他人の想いを受け止める器になって、ネットの海を浮遊している雨宮まみさんのツイートとかインスタの写真を見ながら、これってなんなんだろう、と考えている。実際、これってなんなんだろう?
Twitterでは「#東京を生きる」というハッシュタグで、雨宮さんを追悼するツイートが数多く流れてくる。私はこの本も読んだことがないので、知った風なことは言えないのだが、東京生まれの自分にとって、地方出身の人たちがこのハッシュタグや「東京」や雨宮さんに寄せる気持ちというものは、たぶん一生よくわからないのだろうなぁ、と思った。
よくわからないのだが、なんだか羨ましくもある。私はこんな風に切実に、ある街を欲望したことがない。
私にとって東京という都市に生まれ育ったことは「たまたま」だし、歴史のある下町地域とは違って、区部の中でも西寄りの界隈での生活は、生まれ育った土地に愛着を持つような生き方をとりたてて要求しないのだ。
思春期には年相応に、とにかく実家を出たいとは思ってたけど、「ここではないどこか」のシンボルをさほど切実に求めたことがないし、逆に「この街で生きる」ことを覚悟して選んで東京で生きてるわけでもない。ましてやそういう「どこか」はNYでもパリでもロンドンでもなかったし。
生まれ育った土地に四十過ぎて漫然と暮らしながら、精神的にはあらかじめ根っこの抜かれた草みたいに、ポンとこの場所に「刺さって」いる感じ、というのが自分の東京生活の感覚に一番近い気がする。引っこ抜くのにたいした力は必要ない。
もしもなんらかの理由で東京から避難しなきゃいけないことになったら、私はサクっと荷物をまとめて出て行くだろうし、もう一度この街に戻りたいとか、この街で死にたいとかは思わないだろうな、と思う。
古くからあった庭のあるお屋敷が潰されて駐車場になったり、何軒もの金太郎飴なような分譲住宅が建ったり、という光景を見慣れて育った自分にとっては、都市の姿というのはそもそも書き割りを並べたみたいなペラペラ感があって、欲望の対象にするのは難しいのだ。
こういう風になんとなく東京「で」生きているだけの私は、あのハッシュタグのもとに集まって、誰かと同じ思い入れを持って東京「を」生き、東京「を」欲望し続けている人たちが、なんだか羨ましい気がする。東京生まれなのに、東京に住んでるのに、なんとなく疎外感すら感じる。
「東京」という街そのものが、その外側からくる根のある人たちの欲望の、ばかでかい器であり触媒なんだなぁ、と思う。溢れる想いのいれものが、必要なんだろうなって思う。
雨宮まみさんというひとは、そういう都市の一部になったんだろうな。生きているときも、死んでしまってからも、誰かの器としてそこにある大勢の人たちが、東京にはゴーストみたいに折り重なっている。そしてそこに根をはって生きている人たちがいる。