家族になるということ
ヤマシタトモコ「違国日記」は私がここ数年で一番にハマった漫画で、その最新刊が出たばかりで夜中に電子版を一気読みしたのだが、10巻まできて第1話のストーリーがアナザーサイドから反復されるという、あまりにもあまりにも完璧な展開を見せて、もうウーンすげぇえええ!って唸るしかない状態に陥ったのですが、その翌日に公開されたドキュメンタリー映画「二十歳の息子」をポレポレ東中野でみてきた。
親のいない子どもたちの自立支援を行うNPOに勤めるゲイの男性が、養護施設出身の二十歳の青年(自立がうまくいかずに服役していた)を養子縁組によって引き取り「父親になる」というのがあらすじで、設定だけみるとお腹いっぱい感があると思うけど、ドキュメンタリーとしては抑制のきいた佳作で、救いがないようなあるような、よい意味で「スッキリとは解決しない人生」を切り取った作品だったので、よかったです。
なんで見に行こうと思ったのかは忘れたけど、初日舞台挨拶つきの回で、監督と「父親」になった網谷さんのトークも聴けたので、映画の後日談もほんの少し知ることができました。一人暮らしを始めた息子さんは、月に一、二回電話してくるけどどこで何してるかはよくわからないと。なった経緯は違えど同じひとり親としては羨ましいようなほろ苦いような感じがしました。
映画に登場する網谷さんのご実家のご両親も、網谷さんご自身も「熱い正義の」ひとである。そんでそれはたまに軋轢を生むし、彼自身のバックグラウンド(ゲイをカミングアウトしていること)や、NPOで働き世間的には「きわめてまっとうな」コミュニティを築けていることは、世の「普通の」うまくいかない親子の孤立に比べると圧倒的に優位といってもいいんだよな…ということを見ながら考えていた。
そんなことない、ハンデだらけだと当事者は思うかも知れないけど、世の「普通の」うまく行ってない親子は「親子はなんだかんだあってもうまくやれるようになるものでしょ、普通は」という世間の圧力によって、もっと孤立した状態での親子関係構築を求められがちなんだよなぁ…
その点「人間関係信頼関係を築くことが容易でない」ことが誰からも前提として認められやすい「他人」という関係性は、誰からも応援してもらいやすいんだよね、と思った。なんかもう世の中のうまくいってない親子はみんな、親子トレードしたら半分くらいは救われるんじゃないか、とか。
そこでは「家族関係」の構築に失敗しても誰も責めないし、うまくいけば賞賛される。血のつながったいわゆる「普通の」親子に押し付けられる「うまく行くのがデフォルトで、失敗するのはだいたいにおいて親のせい」みたいな呪いをとく鍵が、これら他人同士が擬似親子になっていく過程に秘められているような気はした。
映画には、本来的にはケアを必要としている人がケアする人を志向する痛々しさも漏らさず記録されていて、そのへんは共感性羞恥で死にそうになるのだが、心理学的善し悪しは別にして、家族の中のどんな立場の人でもケアワークだけを完璧にこなすことはできず、誰かのケアをしつつどこかでケアされる立場にもなれる時間空間がなければ、もたないんだと思う。
本来極めて親密な場にカメラを置いてとことん撮らせる、ということが可能だったのは、息子くんが芸能活動を目指しているということもあっただろう。自分の生い立ちそのものを個性の一つとしてウリにしたいという、若者なりのしたたかな計算を口にし、慣れた様子でタバコをふかしながらも、どこかスレきらない純真さが滲む青年と、荒ぶるインナーチャイルドを抱え、世の中の不正義に怒り、身を刻みながら「寄り添う側」に立とうとする「父親」の綱引きのような関係を見ながら、「違国日記」における少女と「元少女」の擬似的な母子関係にも想いを巡らせていました。
「違国日記」では事故死した姉(生前は不和だった)の娘を中年の少女小説家が引き取るところから物語が始まる。基本コミュ障であり、そのことにコンプレックスも持っている叔母が、勢いで引き取ってしまった新しい「家族」との共同生活を通して少しずつ変わっていく姿、変わらない姿を淡々と描く作品なのだが、この叔母をとりまく大人たちの世界と、一見天真爛漫な少女の10代なりの悩みや成長が並行して描かれ、それぞれがリンクしたりすれ違ったりするさまが、大人になって読むとグッとくる。
多くの言葉は「意味」が通じても人の心を届けるのには何かが足りず、多くの人間関係はさまざまな誤解と無理解と信頼と斟酌との不安定な均衡もとに成り立っていて、それはどういう言葉によっても埋められないものなのだ、ということを、この作品を読むと痛感するし、そこがとてもいい。
長い長い時間をかけて冒頭まで辿り着いたこの物語が、この先どう動いていくのか。やっぱり楽しみな漫画なのだった。
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