乱調で書くこと。
noteで書き始めたのは、結構長く続けていたブログからの引越し先を探すにあたり、スマホから書きやすいサービスを探している中でお試ししてみたもののひとつ、ということだったのですが、ブログ引越しのきっかけとしては、書き方を一度リセットしたい、という気持ちもありました。
以前のブログも現在と同様、雑食系の趣味の話題をぶちこむ先として運用していたのだけど、たまたま当時は比較的ニッチな需要しかなかったK-POPのアイドルの話題をマイブームとして取り上げたあたりから急遽アクセス数が増え始め、いつの間にか最大時には1日のPV4万件ということもある、個人のものとしては結構な集客力のあるサイトになってしまったんです。
こうなってしまうと、なかなかうっかりしたことが書けなくなる。子育ても仕事も忙しさのピークだったのに、話の裏どりや文の推敲に時間がかかって、リアルタイムのアウトプットができなくなり、ほとんど仕事のようになってきて、でもお給料が出るわけじゃないし、自分の好きなことや感じたことを今言葉にしておきたい、という自分のニーズを離れて情報提供サービスのようになってきてしまった。
その上、アフィリエイト業者が接触してきて「この商品のことを記事に書いてくれたらいくら差し上げますよ」と誘ってくるとか、謎の電波を受信してる人から「私はそのアイドルの真実の姿を知っているので自分の言う通りの記事を書いてくれ」みたいな長文メールがしつこく届くとか、設置してた掲示板でダフ屋の真似事始める輩が出てくるとか、諸々めんどくさくなってしまった。それでいったんリセットしたくなったのです。アフィリエイトが目的だったら惜しいサイトだったかも知れないけど、もともとそういう目的ではなかったので。
ブログの引越しとリセットにあたって決めていた優先事項は、さっきも書いた通りとにかくスマホで書きやすくいつでも気軽にアウトプットできるサービスを選ぶ、ということと、とにかく自分の書きたいように書く、ということの2つ。書きたいように書く、というのは、気分の問題とか内容の問題ではなくて、一言で言えば、文体の問題です。
これを意識していたのは、私が昨今のWEBメディアにおけるフリーライター作法に則った記事がことごとくつまらんと思っていて、特にその基本ルールとされる「うっすい内容を引き延ばすためやたらとパラグラフを分割して小見出しをつけ、冒頭インデックス化」「これからこういうことを書くよ、という宣言と、こういうことを書きましたよ、読んでくれてありがとう、よかったら応援クリックよろしく、というシメで構成」等のテンプレがほとんど生理的というレベルで嫌い、というのが根本にありました。
仕事で調べ物をしていてそういうサイトにぶち当たると仕方ないので読むんだけど、費やされた文字数の三分の一ぐらいの量で書き終わる内容しかないものが大半。インデックスつけるまでもない、もしくはインデックスだけでいいじゃんみたいなスカスカの中身、他人のブログの内容やどこかのウェブメディアの既存の記事をそうしたテンプレでリライトしただけのアフィリエイトサイトが、そのうち半分ぐらい。残り半分は「ネットに発表する文章はそうあるべきもの」という刷り込みをされた素人さんの文章という感じ。
この手の検索ノイズにしかならない読み物が、日本語のウェブの中には過去数年で雪だるま式に増えている、という感触がある。べつに調査とかしたわけではないけど体感的に。もはやグーグルの検索アルゴリズムの変更も追いつかないような勢いで、ネットの情報の玉石混交の石の部分が肥大化しているイメージです。
でも、私にとっての問題は、そのスカスカ記事の内容に関する信頼性とかオリジナリティの問題ではないんですよね。私が個人的に読みたいのは、読みやすい文章じゃなくて、もっとエモい文章なの。ボキャブラリーが足りていなくても、形式が整っていなくても、オチがついていなくても、書いた人の中から出てきた言葉。他人の目を気にして、そこそこの偏差値に見えるように取り繕った文章なんかちっとも面白くないし響かない。
だから、最大多数に伝わりやすいようにやさしく噛み砕いて情報を提供する、という書き方はやめよう、と思っていた。そういう書き方をしていると、自分にとってのファーストインパクト(インプレッションではなくインパクト)からどんどん遠ざかる、という気分がだいたい常にあるからです。
これは、わかりやすさの逆張りとしてやたらディープな雑学を混ぜ込んだ内容で書けば解決する問題でもなくて、純粋に文体の問題だと私は思っている。中身はどうあれ乱調であるということに重きを置きたい、というのは、つまりもっと脳内をダダ漏れにしたい、ということ。
でもちょっと油断すると、読みやすい方向に文章を整えてしまう自分がいるわけです。これは、職業病が半分くらい。残りは(物を書くという行為は、何か喋るというのと同じように、突き詰めればコミュニケーションの欲求の顕在化なので)不特定多数のコミュニケーション相手を一切意識せずにアウトプットするというのは、誰にとっても実はものすごく困難な作業だからだと思う。
これを日常的にやれるのはたぶん詩人か狂人ぐらいのもので、その他の人は、本当はなんかちょっと違うんだよな…という居心地の悪さを押し殺して、他人と「わかる」を共有することを選ぶわけです。そのへんの共感って人間が普通に社会的に生きていくのには要るものだから。
ましてやこの年齢になって(私は1971年生まれです)、今それで食べている仕事とは全く関係ないことで文章が書きたい、それでお金を稼げるようにもなってみたい、なんて思ってしまったのは客観的には無茶苦茶だと思います。
みんなが少しずつお疲れ気味の21世紀の日本で広く需要があるのは、とっつきやすい噛み砕き方で心地よい情報を素敵っぽくプレゼンした素敵っぽいライターか、わかりやすい対立構造に基づくアジテーションを繰り返す宗教家・活動家の類だ。しかも文字の表現は写真や映像に取って代わられる方向にシフトしてる。
客の数も筋も下降線という文字メディアの中で、テンプレライターにも知識で武装したオタクにも信仰の対象にもなりたくない、でも自分の言葉で好きなもののことを好きだと言ってたい、というのはたぶん馬鹿げたワガママなのです。
例えばnoteで誰もに高く評価されるようなタイプの文章を書くほうが、職業ライターへの近道ではあるのでしょう。たぶん本気でそれだけやっていれば、誰でもある程度までは、読みやすく最大多数からの好感度の高い文章が書けるようになる。
そこにプラスして、ニッチだけど需要がある新大陸と呼べるようなテーマを選び、その情報を求める人たちにとって心地よい内容の記事をこまめに書き続ければ良いわけです。そうやっていれば、ある程度心地のよい居場所は作れるし職業ライターにもなれる。
でも私はもう少しワガママになってみたい。自分にとってのリアリティをわかりやすさに売り渡してしまいたくないし、そうじゃない表出に対してなんだかわかる気がした、って言ってもらえることの方が、お化粧した言葉が大勢の人に「共感」してもらえるより嬉しいことなんじゃないか、とか思っちゃったんですよね。
お金が稼ぎたいっていうのも、職業ライターになってそれで食べていきたい、というのとはちょっと違ってるかも知れなくて、お金払ってもいいからこの人が書いてることを読み返したいと思われてみたい、っていうことなのかも知れないです。それが大勢である必要はなくて、どこかにそんな人はいないかな、っていう、宇宙船飛ばすみたいな意味で。
私は(少なくとも自己認識としては)たいそう良識的に、あまり酷くはみ出さないようにして40年以上生きてきました。特別個性的だったわけでもなく(誰かに個性的だと言われても個性的ってこんなことじゃなくない?と思う)、むしろ平凡でありたい方だったし(という希望と無関係に小説より奇なりみたいなことが人生に訪れるようなことがあるにしても)、何故だかどこに行っても(どの友達も認める酷い方向音痴であるにもかかわらず)やたらと他人に道を訊かれるようなふわんとした人をやっていて、それはそれで、長いこと馴染んだ自分の在りようでもある。
ので、それでも好きなことを他人に配慮しないスタイルで書く、というのは、やったことがないことへのチャレンジです。若くないので結構勇気が要ることです。この歳でなんか恥ずかしいなぁとも思います。ので、たぶん何度もラクな方、わかりやすい方、最大多数に心地いい方に流れてしまうだろうな、とは思うのですが、随分押し戻されてしまったなぁ、と思う時に自分をもう一度勇気づけるために、何がしたかったのか書いて置いておくことにしました。
話はすっ飛びますが、週末は大阪に文楽を観に行くついでに、心斎橋のBIG CATでのMOROHA含む3メンのライブに行ってました。で、MOROHAを初めて聞いた時から自分に刺さってたのはこういうことだったんだな、と思ったんです。
MOROHA長く聞いてきたわけじゃないし今年知ったばかりだし、アルバムで出てる全曲を聞いてもいないけど、アフロは口から出した言葉がその瞬間に自分を裏切る、ということに対してすごくセンシティブな人だと思う。内側から言葉を剥き出しにして人にぶつけながら、それじゃない、ということにどこか苛立っているように感じる。そういうところに惹かれたように思う。
夏に映画「アイスと雨音」をみてMOROHAを知って、勢いだけでライブのチケットをとったのですが、生でみたMOROHAはCDよりはるかに良くて、私はライブ中、2回半ぐらい泣いたんだけど、どこで泣いたのかとか、どうして泣いたのかとかは言いたくないので書かないし、MOROHAマジ泣けるよ〜♪みんな聞いて聞いて、とかいうのとも違うと思っているので、何がどう良かったのかを説明するのはすごく難しい。MOROHAの音楽と向かい合うのは、ものすごく個人的な体験だと思う。
ライブの途中、黄色い声で「MOROHA最高!」って叫んだ女の子がいて、私は瞬間的にパーンと頭に血がのぼるレベルでイラッとして、うるせぇよ黙れ、って思った。そういうんじゃないだろ、って。
実際、3メンで他のバンド目当てで来てたお客さんは、多くがMOROHAのライブに少し戸惑ってるようだった。なんにせよパフォーマンスは圧倒的だ、でも拍手もヒューヒューも拳を突き上げることも、彼らの音楽に相応しくないように思える。
そういう「居心地の悪さ」の中でアフロは剥き出しの言葉を叩きつけ続けていて、UKは黙々とギターを弾いてた、お互いろくなアイコンタクトもせずに。
今日ここにいる3つのバンドの中で唯一メジャーデビューしてるバンドです、と自己紹介した時のアフロの挑発的な目は忘れられないし、MOROHAもっと聴きたい!って叫んだお客さんに、俺も自分の声をもっとずっと聴いてたい、最高だって思うときもあるし、大嫌いだって思うときもある、と言ったアフロは誠実だと思った。
このエントリの前半部はライブに行くよりだいぶ前に書いたもので、そういう意味ではMOROHAの影響で書いたわけじゃないですが、着地点を定めないまま書き始めていた文章にMOROHAのライブという経験が重なったのもシンクロニシティというもののような気がして、同じエントリに突っ込んでしまいました。
たぶんこれ以上書いてるとだんだん嘘くさくなるので、やめます。月曜からはまた忙しい、仕事仕事の一週間だけど、少し無茶なスケジュールでも今回の大阪行ってよかった。少しずつ、やりたいと思ったことを経験しています。