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書き換えられる記憶にどう抵抗するか "1984 3/4"
ダブルシンクと問いかけ
前回までの流れで、「1984」が描く監視や言語のコントロールが、決して昔の独裁国家だけでなく、私たちの日常やコミュニケーションのあり方にもつながっているというお話をしてきました。今回はさらに一歩踏み込み、「ダブルシンク(Doublethink)」という概念と、そこから広がる自分自身への問いかけを中心に考えてみたいと思います。オーウェルの作品の中でも重要な柱となるこのキーワードは、私たちが日常の中でしばしば体験しているある種の「自己矛盾」や「自己欺瞞」と深く関係しています。少し重く感じるかもしれませんが、なるべく具体的な例を交えながら、私たちがどんな場面で「ダブルシンク」的な状態に陥りやすいのか、それにどう向き合っていけるのかを一緒に探求していきましょう。もしこのあたりのテーマが少しでも気になったら、引き続き最終回まで読んでいただけたらうれしいです。
「ダブルシンク」とは何か
「ダブルシンク」という言葉は、「1984」の世界で人々の思考を支配する要ともいえる概念です。ごく端的に言えば、互いに矛盾する二つのことを同時に信じ込む、またはそう信じている自分を自覚しないまま受け入れてしまう心の状態を指します。たとえば、支配階級にとって都合の悪い歴史が書き換えられたとしても、その直前までの事実と改変後の事実を矛盾なく信じ続けるのです。「つじつまが合わないんじゃないか」と疑問を抱くはずなのに、まるでその疑問が芽生える前に自分自身を説得してしまう、あるいはそもそも疑問の存在自体を忘れてしまう。これこそが「1984」の世界をがんじがらめにする大きな仕掛けとして描かれます。
では、この「ダブルシンク」は現実の私たちにまったく当てはまらない概念かというと、決してそうではありません。たとえばSNS上でのやりとりを想像してみてください。あるとき誰かが不都合な情報を流したり、これまでの事実と明らかに食い違う発言をしていたとしても、あなたがそれを指摘するのは気が引けるのでスルーしてしまうことはないでしょうか。さらに言えば、「それが気になるなら、相手をブロックすればいいだけ」と思って、その矛盾にあえて目を向けないまま過ごしてしまうこともあるかもしれません。そうしたとき、私たちはどこかで「気づいているのに気づいていないフリ」をしてしまう。これも、ささやかながら「ダブルシンク」に近い心の動きと言えるでしょう。
あるいは、会社やコミュニティでの慣習やルールに矛盾を感じつつ、「ここではこうしておくのが当たり前」と割り切ってしまうことはありませんか。自分の中で「これって理不尽かも」と薄々感じていても、一方で「みんなが受け入れていることだし、自分も受け入れなきゃ」と思ってしまう。その結果、「矛盾しているかもしれないけれど、そう感じないようにする」という二重思考の状態に入ってしまう。これは、普段の暮らしでも思い当たる節が意外と多いのではないかと思います。
「ダブルシンク」は、極端な監視社会において人々を操作するための便利なツールとして描かれます。しかしわたしたち個人のレベルでも、衝突やストレスを避けるために意図的に(あるいは無意識に)「ダブルシンク」状態へ入っていくことがあるのです。そこには社会や組織の一員として生きやすくするための知恵もあるかもしれませんが、その一方で気づかないうちに大切なものを見失ったり、本来の自分の思考まで歪めてしまったりする危険をはらんでいます。
記憶の書き換えがもたらすもの
「1984」では、国家が「過去の記録」を次々に改ざんし、その都度、人々は古い記憶を捨て去って新しい「公式の事実」を受け入れるという場面がたびたび登場します。矛盾に気づいたり「前は違うことを言っていたはず」と思ったりしても、最終的には新しく提示された事実を受け入れてしまうわけです。そして受け入れるだけでなく、本当に以前の情報を「なかったもの」として頭の中から消し去ってしまう。これも「ダブルシンク」の究極的な形態といえますが、現実の私たちも、情報があふれる環境の中で過去の出来事や事実を都合よく上書きしてしまう瞬間はないでしょうか。
SNSをはじめ、オンライン上には大量のデータが蓄積される一方で、タイムラインは流れていく情報を次々に新しいものへと置き換えていきます。少し前に見た記事や動画の内容を忘れてしまうことは多いですし、しかも後から探し直そうとしても、膨大な情報の海に埋もれてしまって見つからないこともあります。そうすると、わたしたちは「今、目の前に流れている情報」こそが最新で正しいものだと、あっさりと信じがちです。先日まで感じていた疑問や懐疑的な見方を、いつの間にか置き去りにし、「実はそんな疑念すらなかったんじゃないか」と自分を納得させてしまうこともあるかもしれません。
また、個人の記憶レベルでも「思い出を美化する」「都合の悪い過去を棚上げにしてしまう」といった自己防衛的な振る舞いは珍しくありません。これはだれしも多かれ少なかれ持っている人間の性質かもしれませんが、「1984」的な視点で見れば、それも一種の自己改ざん、自己コントロールのプロセスです。もちろん、全ての過去を正確に覚えている必要はないでしょうし、時には忘れたほうが楽になれることだってあるはずです。ただ、それがあまりに習慣化すると、自分自身が何を重要視し、何を問題と感じていたのかさえ曖昧になってしまう。そのときに起こるのは、自分がどんな人間だったのかというアイデンティティの揺らぎかもしれません。
歴史学者や思想家の中には、記憶を共有することこそ社会が自浄作用を働かせるための鍵だと言う人もいます。実際、戦争や独裁の歴史を風化させないためには、どこかで集団としての「覚えている」努力が必要になりますよね。私たち個人のレベルでも似たようなことが言えるかもしれません。嫌なことや矛盾を感じたことがあっても、自分の中で「なかったこと」にしてしまうと、同じ問題に再び出会ったときに正しく対処できなくなる恐れがあります。つまり都合よく記憶を書き換えることは、楽になる反面、成長や改善の機会を奪ってしまう可能性もあるのです。
小さな抵抗と自己対話の大切さ
オーウェルの作品の中で、主人公ウィンストンが小さくても重要な抵抗を試みるシーンがあります。それは「紙の上に自分の思考を書き留める」という行為です。監視の目をかいくぐりながら、自分の頭の中にわき起こった疑問や違和感を紙に書き記し、後で読み返す。これが実は作品の随所で意味を持ち、彼の内面での「孤独な戦い」を象徴する行為となっています。監視社会の中では、そこに書かれている内容自体が即座に証拠として危険視されるかもしれませんが、それでも「自分は何を考えていたのか」という痕跡を残すことに大きな価値があったのです。
これは現代の私たちにも応用できるヒントかもしれません。たとえばSNSではなく、あえて自分だけのノートや手帳に、今の思いを率直に書き留めてみる。あるいは携帯電話やパソコンから離れて、頭の中にあるモヤモヤを誰にも見せないメモにしておく。こうすると外部の「いいね」の数や批判の声とは関係なく、自分の本音と向き合い、それを確かめておくことができます。さらに後から読み返すことで、かつてはこう思っていたんだという事実が、たとえ自分にとって不都合なものであれ、確実にそこに残ります。それは「記憶の書き換え」に対する小さなブレーキとして機能するでしょう。
もう一つ、小さな抵抗の形として大切なのは、会話や対話です。もちろんSNSやチャットツールで多くの人とつながっている時代ですから、単に文字を交わすだけなら手軽にできます。ただ「1984」で描かれるような監視社会の空気に近い状態では、チャットや公開の場では本当のことを言えない雰囲気が漂うこともあるかもしれません。そんなときでも少人数の信頼できる仲間や、オフラインの場を通じて本音を語り合う機会を持っておくと、情報や記憶が書き換えられそうになるときに「あれ、本当はこうじゃなかったっけ?」と気づかせてくれる人が現れるかもしれません。言葉にして共有することで、自分の中にある曖昧な違和感がよりはっきりした形で浮かび上がることもあります。
それは決して大規模な運動を起こすほどのことではありませんし、社会を一変させる革命のようなインパクトがあるわけでもないかもしれません。しかし、ディストピア的な監視やコントロールに流されないでいるためには、自分の考えを確かめ続ける小さな行動を積み重ねる必要があるのです。気になることがあれば、自分なりの形で記録してみる。それをときどき見返して、疑問が解消されたのか、まだ違和感があるのかを考えてみる。さらに誰か信頼できる人と話してみて、他の見方や意見を聞く。そんな一つひとつが、「ダブルシンク」の状態に陥ったり、記憶を書き換えたりしないための大事なステップになるのではないでしょうか。
「1984」の学びを日常に生かすために
ここまで、ダブルシンクや記憶の書き換えというテーマを中心に考えてきましたが、やはり大切なのは「自分が何を考えているのか」を見失わないようにすることだと感じます。私たち一人ひとりが「1984」の主人公ウィンストンのように、日々の生活の中で小さな抵抗や覚悟を持ち、時には自分の意見を言葉にしてみる。そこには、仕事や人間関係が円滑にいかなくなるリスクもあるかもしれませんが、それでも「黙りこむ」選択を続けていると、いつの間にか「これでいいんだ」「これが当たり前なんだ」という考え方に慣らされてしまう危険があります。
もちろん、強い意見ばかり主張して衝突を生むという意味ではありません。「1984」の物語に学ぶのは、一方的な支配や空気に流されるだけでなく、自分の中に生まれた疑問や違和感を保持し続ける大切さです。もしそれを小さな声でも共有できる場があれば、人はお互いに補い合いながら、自分自身の思考を守ることができます。そうやって多様な意見や感性が共存する社会は、一見すると混乱しやすいかもしれませんが、実はダブルシンクが蔓延する世界よりもはるかに豊かで健全なのではないかと思います。
さらに、こうしたテーマを考えるときにもう一度思い出したいのが、前回や前々回でも話題に出てきた監視テクノロジーの問題です。AIによるデータ分析やアルゴリズムによる情報の推奨は、私たちに便利さをもたらしますが、その裏側では「あなたにはこの情報が合っているはずですよ」という形で選択肢を狭めているかもしれません。自分が望む以上に快適な環境が提供されると、その快適さを手放すのが怖くなり、いつしか「ダブルシンク」がしやすい状態に自ら浸ってしまう可能性があります。こうしたことを意識しながらテクノロジーとつきあうためにも、やはり「自分が何を求め、何を疑問に思っているのか」を忘れないための小さな習慣が必要なのだと思います。
今回の第3部では、「ダブルシンク」と「記憶の書き換え」の話を中心に、「1984」が私たち自身の心の中で起こりうるメカニズムをあぶり出してくれるのだという視点を重ねてみました。次回はいよいよ最終回として、この作品から総合的に学べることや、現代の私たちがどう生き抜くかに結びつけられるヒントをまとめたいと思います。もし少しでも「1984」の世界観に興味を持ったり、自分の思考やコミュニティに疑問を抱くきっかけを感じられたなら、もう一歩だけご一緒に進んでみてください。最後まで読んでいただけると、ちょっとした新しい気づきが待っているかもしれません。