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読書の罠 "ショーペンハウアー「読書について」 1/3"

読書にデメリットはあるのか

 皆さんは、どのような読書習慣をお持ちでしょうか。毎日決まった時間に読書をする、通勤電車の中で読書をする、週末にまとめて読むなど、人それぞれのスタイルがあるかと思います。そして多くの人が、読書は知識を得るための良い習慣だと考えているのではないでしょうか。昨日まで解説してきた「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」についても、読書それ自体が必要な行為という前提でした。

ショーペンハウアーの鋭い読書論

 19世紀のドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)は、その鋭い洞察と辛辣な批評で知られる思想家です。彼の著作『読書について』は、単なる読書論にとどまらず、知識の獲得、思考の本質、そして人間の精神活動に関する深遠な考察を含んでいます。本分析では、ショーペンハウアーの読書論を詳細に検討し、その哲学的背景、現代社会への適用、そして批判的視点を探ります。

この分析は以下の4つの主要部分に分かれています。

  1. ショーペンハウアーの哲学的背景と「読書について」の位置づけ

  2. 「自分の頭で考える」ことの重要性と読書の限界

  3. 良書と悪書の区別、および読書の方法論

  4. ショーペンハウアーの読書論の現代的意義と批判的考察

それぞれの項目でショーペンハウアーの思想を詳細に分析し、その歴史的文脈や現代社会との関連性を探ります。また、他の哲学者や思想家の見解も参照しながら、ショーペンハウアーの読書論の独自性と普遍性を浮き彫りにしていきたいと思います。

ショーペンハウアーの生涯と思想形成

 アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年、ドイツのダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)に生まれました。裕福な商人の家庭に育ち、若くして欧州各地を旅する機会を得たことが、後の彼の思想形成に大きな影響を与えました。この幼少期の経験は、ショーペンハウアーに広い視野と文化的多様性への理解をもたらし、後の彼の哲学に豊かな基盤を提供しました。

ショーペンハウアーの哲学的キャリアは、ゲッティンゲン大学での医学の学びから始まりました。しかし、すぐに哲学への関心を深め、ベルリン大学でフィヒテの講義を聴講します。この経験は、後に彼がドイツ観念論に対して批判的な立場を取るきっかけとなりました。フィヒテの主観的観念論に対する不満は、ショーペンハウアーを独自の哲学的道を模索させることになります。

1819年、31歳のショーペンハウアーは主著『意志と表象としての世界』を出版します。この著作で彼は、世界は人間の表象であり、その根底には盲目的な「意志」が存在するという独自の形而上学を展開しました。ショーペンハウアーはこの著作で次のように述べています。

「世界は私の表象である。――これは、生きとし生けるものについて言えることであり、認識するものについて言えることである。しかし、人間にとってのみ、この真理は抽象的な意識にまで高められる」

(『意志と表象としての世界』第1巻、斎藤忍随ほか訳、1974年)

この思想は、当時のヘーゲル哲学の楽観主義とは対照的な悲観主義的世界観を示しており、後の実存主義やニヒリズムの先駆けとなりました。ショーペンハウアーの哲学は、人間存在の根本的な苦悩と、その克服の可能性を探求するものでした。

哲学者の木田元は、ショーペンハウアーの思想について次のように述べています。

「ショーペンハウアーは、カントの物自体を『意志』として具体化し、それを世界の本質と見なした。この意志は盲目的で非合理的なものであり、人間の苦悩の源泉となる。しかし同時に、芸術や倫理的行為を通じてこの意志から一時的に解放される可能性も示唆している」

(木田元、『ショーペンハウアー全集』、1996年)

『読書について』の著作背景と主要テーマ

 『読書について』は、ショーペンハウアーの晩年の著作『余録と補遺』(1851年)に収められた小論の一つです。この時期、ショーペンハウアーはすでに主要な哲学的著作を発表し終えており、より実践的で日常的なテーマに関心を向けていました。19世紀半ばのドイツは、印刷技術の発展と識字率の向上により、書籍が比較的容易に入手できるようになった時代でした。この文化的背景が、ショーペンハウアーの読書論に大きな影響を与えています。

『読書について』で扱われるテーマは、ショーペンハウアーの基本的な哲学的立場、特に知識の本質と獲得方法に関する彼の考えを反映しています。彼は、真の知識は単なる情報の蓄積ではなく、自らの思考と経験を通じて得られるものだと主張しました。

ショーペンハウアーは『読書について』の冒頭で次のように述べています。

「読書とは、他人に考えてもらうことである。ところが、われわれは自分の頭で考える能力をもっている。そして、この自然な働きによってこそ、われわれはいつも前進することができるのだ」

(『読書について』、斎藤忍随訳、1993年)

この言葉は、ショーペンハウアーの読書論の核心を端的に表現しています。彼は、読書が思考の代替となることを警戒し、自己思考の重要性を強調したのです。私たちも、読書をしている中で自分で考えながらする読書と、唯他人の頭の中をなぞるような読書と、それぞれ自覚することがあるのではないでしょうか。

ショーペンハウアーの認識論と読書論の関係

 ショーペンハウアーの読書論は、彼の認識論と密接に関連しています。彼はカントの影響を強く受けており、人間の認識は主観的な「表象」に基づいているという立場を取りました。カントの超越論的観念論を継承しつつ、ショーペンハウアーはそれを独自の方向に発展させました。

この観点から、ショーペンハウアーは読書を通じて得られる知識を「二次的」なものと見なしました。彼にとって、真の知識は直接的な経験と自らの思考から生まれるものであり、他人の思考の結果である書物からは、最良の場合でも間接的な知識しか得られないと考えたのです。

ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で次のように述べています。

「すべての真理と知恵は、結局のところ、直観のうちに存する。・・・直観だけが、無条件に真なるものを与え、したがって完全に信頼できるものを与える」

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

この直観重視の立場は、彼の読書論にも反映されています。ショーペンハウアーは、書物を通じて得られる知識よりも、直接的な経験と思索を通じて得られる洞察を重視したのです。

哲学者の伊藤邦武は、ショーペンハウアーの認識論と読書論の関係について次のように述べています。

「ショーペンハウアーにとって、読書は他者の表象を通じて世界を見ることに過ぎない。真の知識は、自らの直観と思考を通じて世界の本質である『意志』に迫ることによってのみ得られる。この観点から、ショーペンハウアーは読書に対して批判的な姿勢を取りつつも、適切な読書法を通じて思考を深化させる可能性も認めているのである」

(伊藤邦武、『認識論から存在論へ』、2008年)

『読書について』はあくまで本というものを軸に述べられていますが、その中には深い哲学的洞察があることが伺えるのではないでしょうか。

当時の知的環境と読書文化

 ショーペンハウアーが『読書について』を執筆した19世紀半ばは、印刷技術の発展と識字率の向上により、書籍が比較的容易に入手できるようになった時代でした。特に、蒸気機関を用いた印刷機の発明(1814年)以降、書籍の大量生産が可能となり、読書文化が大きく変容しつつありました。

一方で、この時代は依然としてエリート主義的な学問文化が支配的であり、大学や学術機関が知識の中心地として機能していました。ドイツの大学は、フンボルトの教育改革(1810年)以降、研究と教育を結びつけた近代的な高等教育機関として発展していましたが、同時に権威主義的な側面も残していました。

このような文脈において、ショーペンハウアーの読書論は、当時の知的環境に対する批判的な反応としても理解することができます。彼は、単に多くの本を読むことや、権威ある学者の意見を鵜呑みにすることの危険性を指摘し、個人の独立した思考の重要性を強調しました。

ショーペンハウアーは『読書について』で次のように警告しています。

「多読は精神を麻痺させる。絶え間なく他人の思想を読むことによって、自分で考える習慣を失ってしまうのである」

ショーペンハウアー

この指摘は、当時急速に拡大しつつあった大衆読書文化への警鐘とも受け取れます。ショーペンハウアーは、量的な知識の拡大が必ずしも質的な思考の深化につながらないことを鋭く指摘したのです。

文学研究者のロジャー・シャルチエは、18世紀末から19世紀にかけての読書文化の変容について次のように述べています。

「この時期、読書は集中的なものから外延的なものへと変化した。つまり、少数の聖典的テキストを繰り返し読む習慣から、多様な新しいテキストを次々と消費的に読む習慣へと移行したのである」

(ロジャー・シャルチエ『読書の文化史』、田村毅訳、1992年)

ショーペンハウアーの読書論は、このような読書文化の変容に対する批判的反応としても理解できるでしょう。彼は、単なる情報の消費ではなく、深い思索と結びついた読書のあり方を提唱したのです。

以上の考察から、ショーペンハウアーの『読書について』は、単なる読書の指南書ではなく、彼の哲学全体、特に認識論と深く結びついた重要な著作であることが分かります。同時に、それは19世紀半ばの知的環境と読書文化の変容を背景とした、時代への批判的応答でもあったのです。

明日は読書を通して人が行う思索や、読書それ自体の限界についてもショーペンハウアーの鋭い指摘に焦点を当てながら考えていきましょう。ショーペンハウアーの著書では、まさに「自分で考えていない読書」について指摘がありました。しかしショーペンハウアーの「読書について」は、読む人に徹底的に考えることを促す良書です。まだ読んだことがないという方は、是非手にとってみることをお勧めします。(文章量もかなり少ないので、働きながら読むのに最適な本かもしれません!)


 余談:最近の読書体験で一番良かったのは自然の中でデジタルデバイスを全て置いて読書をした時です。川と焚き火の音だけで読書をする経験は、本の内容は勿論ですが、自分の思索のひとときを過ごすには最適な時間でした。

キャンプ中に焚き火の灯りで読んでいた本

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