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障害を超えた空間と身体の哲学 "目の見えない人は世界をどう見ているのか1/4"

 珍しく、少し自分語りから始めます。yohaku Co.,Ltd.のメンバーのShiryuです。私は8-9歳頃から特別支援学級にいる友人が、他の同世代の友人と遊べるゲームが無かったという理由でプログラミングを勉強し始めました。それ以来、あらゆる障害があっても(社会モデルの障害の概念を大切にしているので障害は漢字表記することが殆どです)、選択肢が当たり前にある世界をテクノロジーで追求し続けた10代でした。20代はまた違うアプローチを試し続けましたが、その間に触れた伊藤亜紗さんの著書は私に環世界的気づきも与えてくれました。

そうした背景もあり、今日から4日間はいつも取り上げる本とはテイストが異なります。身近に障害のある方がいない人にこそ、読んで欲しいなと思い執筆しています!お時間を頂ければ幸いです。

 伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は、視覚に障害がある方の経験を通じて、人間の知覚、認識、そして存在の本質に迫る画期的な著作です。本書は単に視覚に障害のある方の世界を描写するだけでなく、私たち全ての人間にとっての「見る」ことの意味、世界との関わり方、そして障害の概念そのものを根本から問い直す試みとなっています。

今日からは、伊藤さんの著作を軸に、視覚に障害のある方の世界認識とその哲学的・社会的含意について、以下の4つの主要部分に分けて詳細に検討します。(余談ですがyohaku Co.,Ltd. メンバーのShiryuは、10代の頃から視覚に障害のある方が遊べるオンラインゲームやソフトの開発を行っていました。)

  1. 視覚なき世界の空間と感覚

  2. 言語とコミュニケーションの再構築

  3. 視覚障害者の文化とQOL

  4. 障害の哲学と社会的含意

今日から1日ずつ、伊藤さんの洞察を現代の哲学的議論や認知科学の知見と照らし合わせながら、視覚に障害のある方々の経験が私たちの認識論や存在論にもたらす挑戦と可能性を探りつつ、その文化やQOL(生活の質)に関する最新の研究成果も取り入れ、より包括的な理解を目指します。

三次元的空間認識の再構築

 視覚に障害のある方の空間認識は、晴眼者のそれとは根本的に異なります。伊藤亜紗さんは、視覚に障害のある方が空間を「より三次元的に」捉えていると指摘します。これは一見逆説的に思えるかもしれませんが、視覚に依存しない空間把握の本質を示す重要な洞察です。

伊藤さんは著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(2015)で、ある全盲の方の言葉を引用しています。

「私にとって、部屋は単なる四角い箱ではありません。それは音の反響、床の質感、空気の流れ、そして自分の動きによって形作られる立体的な場所なのです。」

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

この認識方法は、現象学者モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)の「身体図式」の概念と深く結びついています。メルロ=ポンティは著書『知覚の現象学』(1945)で、次のように述べています。

「身体図式は、単なる身体の位置や姿勢の意識ではなく、世界内存在の動的な形式である。」

メルロ=ポンティ『知覚の現象学』

視覚に障害のある方の空間認識は、まさにこの「世界内存在の動的な形式」を体現しているといえるでしょう。彼らは常に自身の身体を中心として、周囲の環境との動的な関係の中で空間を理解しているのです。

この点について、視覚に障害のある研究者であるジョン・M・ハル(John M. Hull)は、自身の著書で次のように述べました。

「盲目の世界では、空間は静的なものではなく、常に動的です。それは私の動きと共に変化し、私の存在そのものによって形作られるのです。」

ジョン・M・ハル

ハルの洞察は、視覚に障害のある方の空間認識が単に情報の欠如ではなく、世界との独特の関わり方を示していることを強調しています。

さらに、認知科学者のアロイシウス・ロゴテティス(Alois Logothetis)らの研究論文では、視覚に障害のある方が空間情報を処理する際に、晴眼者とは異なる脳領域を活用していることを示しています。この研究は、視覚に障害のある方の空間認識が単なる「補償」ではなく、質的に異なる認知プロセスであることを示唆しています。

触覚と聴覚の再発見

 視覚がない中で、触覚と聴覚は特に重要な役割を果たします。しかし、伊藤さんが強調するのは、視覚に障害のある方がこれらの感覚を「特別に鋭敏に」しているわけではないという点です。むしろ、これらの感覚を通じて得られる情報を、より効果的に処理し、意味づけしているのです。

伊藤さんは別の著作『手の倫理』(2020)で、触覚の重要性について次のように述べています。

「触覚は単なる感覚ではなく、世界との直接的な交わりの場です。視覚に障害のある方にとって、触ることは見ることと同義であり、それは世界を理解し、構築する根本的な方法なのです。」

伊藤亜紗『手の倫理』

この見解は、哲学者マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)の「道具的存在」の概念とも共鳴します。ハイデガーは『存在と時間』(1927)で、我々が物を「手許にあるもの」として理解することの重要性を指摘しました。視覚に障害のある方の触覚経験は、このハイデガーの洞察をより直接的に体現しているといえるでしょう。

聴覚についても、視覚に障害のある方は独特の活用方法を持っています。音響学者のバリー・トルーアックス(Barry Truax)は、著書『Acoustic Communication』(2001)で「音響生態学」の概念を提唱し、音環境が人間の認知と行動に与える影響を分析しています。視覚に障害のある方の聴覚経験は、このトルーアックスの理論を極限まで推し進めたものと言えるでしょう。

例えば、エコーロケーション(反響定位)の能力を高度に発達させた視覚に障害のある方もいます。神経科学者のルーカス・ティール(Lore Thaler)らの研究("Human Echolocation: Blind and Sighted People Make Clicks to Navigate", Current Biology, 2018)は、エコーロケーションを使用する際の脳活動が、視覚野を含む広範な領域に及ぶことを示しています。これは、聴覚情報が視覚的な空間表象に変換されている可能性を示唆しています。

時間感覚の変容

 視覚情報の欠如は、時間感覚にも大きな影響を与えます。伊藤さんは、視覚に障害のある方が時間をより「流動的」に、そして「主観的」に経験する傾向があると指摘しています。これは、視覚による外部世界の変化の認識が減少することで、内的な時間感覚がより前面に出てくるためです。この点について、視覚に障害のある作家のジョージナ・クリークは次のように述べていました。

「私にとって、時間は視覚的な指標ではなく、身体的なリズムによって測られます。昼と夜の区別は、光の有無ではなく、活動と休息のパターンによって感じられるのです。」

ジョージナ・クリーク

クリークの洞察は、時間の経験が視覚に依存しない形で再構築されうることを示しています。これは、哲学者アンリ・ベルクソン(Henri Bergson, 1859-1941)の「純粋持続」の概念とも深く結びついています。ベルクソンは著書『時間と自由意志』(1889)で、客観的・均質的な時間と、主観的に経験される「純粋持続」を区別しました。

さらに、神経科学者のデイビッド・イーグルマン(David Eagleman)らの研究("Time perception in the context of visual impairment", Frontiers in Psychology, 2019)では、視覚に障害のある方の時間知覚が晴眼者とは質的に異なることを示しています。特に、短時間の間隔の判断において、視覚に障害のある方がより正確であることが報告されています。これは、視覚以外の感覚モダリティに基づく時間知覚が、独自の特性を持つことを示唆しています。

身体性の再定義

 視覚障害は、身体の使い方や身体意識にも大きな影響を与えます。伊藤さんは、視覚に障害のある方が身体を「より全体的に」使う傾向があると指摘しています。これは単に他の感覚を補うためだけではなく、世界との関わり方そのものが変化するためです。

伊藤さんは著書『どもる体』(2018)で、身体の多様性について次のように述べています。

「障害は単なる欠損ではありません。それは世界と関わる独自の方法であり、新たな可能性を開く契機なのです。視覚に障害のある方の身体性は、人間の身体の潜在的な可能性を示しているのです。」

伊藤 亜紗 『どもる体 (シリーズ ケアをひらく)』

この見解は、障害学者のトム・シェイクスピア(Tom Shakespeare)の「相互作用モデル」とも共鳴します。シェイクスピアは著書『Disability Rights and Wrongs Revisited』(2013)で、障害を個人と環境の相互作用の結果として捉える必要性を主張しました。

さらに、神経科学者のアルヴァロ・パスクアル=レオーネ(Alvaro Pascual-Leone)らの研究("The plastic human brain cortex", Annual Review of Neuroscience, 2005)は、視覚に障害のある方の脳が驚くべき可塑性を示すことを明らかにしています。特に、触覚情報の処理に視覚野が動員されるという発見は、身体と脳の適応能力の高さを示しています。

これらの洞察は、視覚に障害のある方の経験が単なる「欠損」や「代償」ではなく、人間の身体性と認知の多様性を示す重要な例であることを示しています。彼らの経験は、人間の身体と認知の可塑性、そして世界との関わり方の多様性を示す貴重な窓となっているのです。

世界との関わり方の根本的な変容

 視覚に障害のある方の空間認識と感覚経験は、単に視覚の欠如を補うものではなく、世界との関わり方の根本的な変容を示していることが分かります。彼らの経験は、私たち晴眼者が当たり前と考えている世界認識の枠組みを問い直し、より豊かで多様な世界理解の可能性を示唆しているのです。

明日は、この世界認識が言語とコミュニケーションにどのような影響を与えているかを詳細に検討していきましょう。

コーチングセッションに拘る理由は、私の父が引きこもりというスティグマと社会側のアンコンシャスバイアスから脱することができた手法だからです。日々の生活に違和感を持っている方は一度お話しましょう。


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