利他の出発点に立つために "「利他」とは何か 4/4"
利他と利己の二元論を超えて
『「利他」とは何か』において、利他と利己の二元論的理解の限界についても考えることができます。今日は更に深い考察を進めつつ、最終的なまとめに入っていきましょう。
この視点は、利他を単なる自己犠牲としてではなく、自己と他者の関係性の中で生まれる創造的な行為として捉え直す可能性を示唆しています。
この考え方は、哲学者のマルティン・ブーバー(1878-1965)の「我-汝」関係の概念とも深く関連しています。ブーバーは『我と汝』(1923)において、真の対話的関係における自己と他者の相互変容の可能性を論じました。ブーバーは次のように述べています。
ブーバーの思想を國分の議論と結びつけると、利他的行為とは単に自己を犠牲にすることではなく、自己と他者が相互に変容し、新たな関係性を築いていく過程として捉えることができるでしょう。
さらに、心理学者のエーリッヒ・フロム(1900-1980)は『愛するということ』(1956)において、成熟した愛は自己と他者の両立を可能にするものだと主張しました。フロムの視点を踏まえると、真の利他とは自己否定ではなく、むしろ自己を十全に発揮しながら他者と関わることだと考えることができます。
本書では、このような利他と利己の相互依存的な関係について、次のように述べられています。
利他のパラドックス
利他に内在するパラドックスについても考えてみましょう。
この指摘は、利他的行為の複雑さと難しさを浮き彫りにしています。真の意味での利他とは何か、それをどのように実践すべきかという問いに、簡単な答えはないのかもしれません。
このパラドックスは、哲学者のエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)の他者論とも深く関連しているのではないでしょうか。レヴィナスは『全体性と無限』(1961)において、他者の絶対的な他者性を尊重することの重要性を主張しました。レヴィナスは次のように述べています。
レヴィナスの思想を伊藤の議論と結びつけると、利他的行為は常に他者の自律性を損なうリスクを孕んでいると言えるでしょう。このパラドックスを認識しつつ、いかに他者の他者性を尊重しながら利他を実践するかが、重要な課題となります。
さらに、哲学者のジャック・デリダ(1930-2004)は『友愛のポリティックス』(1994)において、真の贈与(ギフト)の不可能性について論じています。デリダによれば、贈与が贈与として認識された瞬間に、それは交換の論理に回収されてしまうというのです。
デリダの視点を伊藤の利他のパラドックスと結びつけると、純粋な利他的行為の困難さがより鮮明になります。利他的行為が「利他的」として認識された瞬間に、それは何らかの見返りや自己満足を期待する行為に転化してしまう可能性があるのです。
自己と他者の境界の曖昧さ
自己と他者の境界の曖昧さについて考えたことはあるでしょうか?
この視点は、哲学者のジャン・ボードリヤール(1929-2007)の「シミュレーション」の概念とも深く関連しています。ボードリヤールは『シミュレーションとシミュラークル』(1981)において、現代社会ではイメージと現実の区別が曖昧になっていると主張しました。ボードリヤールの思想を本書の議論と結びつけると、現代社会における利他的行為の意味や価値も、このような現実とイメージの境界の曖昧さの中で再考する必要があるかもしれません。
さらに、認知科学者のフランシスコ・ヴァレラ(1946-2001)は『身体化された心』(1991)において、自己と環境の相互作用的な関係性を強調しています。ヴァレラの「エナクティブ・アプローチ」によれば、認知は身体と環境の相互作用の中で生まれるものだというのです。
ヴァレラの視点を中島の議論に適用すると、利他的行為も自己と他者、そして環境との複雑な相互作用の中で生まれるものとして捉えることができるでしょう。このような自己と他者の境界の曖昧さについて考えることも利他を考える上で重要な視点になるのです。
開かれた利他へ
『「利他」とは何か』の著者たちは、開かれた利他の可能性について語っています。下記の言葉を読みながら「利他」についての投げかけをしつつ、4日間に渡る考察を締めくくっていきましょう。
この言葉は、利他をめぐる探求が、単に理論的な考察に留まらず、私たち一人一人の日々の実践と深く結びついていることを示唆しています。
この「開かれた利他」の概念は、哲学者のジャック・デリダ(1930-2004)の「来るべきもの(à venir)」の思想とも呼応しています。デリダは『マルクスの亡霊たち』(1993)において、未来に開かれた倫理の可能性を探求しました。
デリダの思想を中島の議論と結びつけると、利他とは常に未来に向けて開かれた、終わりなき探求のプロセスとして捉えることができるでしょう。
さらに、社会学者のジグムント・バウマン(1925-2017)は『リキッド・モダニティ』(2000)において、現代社会の流動性と不確実性を指摘しています。バウマンの視点を踏まえると、利他の形も固定的なものではなく、常に変化し続ける流動的なものとして捉える必要があるかもしれません。
利他のパラドックスから見る新たな倫理の可能性
利他のパラドックスや自己と他者の境界の曖昧さを認識することで、従来とは異なる新たな倫理の可能性が浮かび上がってきます。まず、利他と利己の二元論を超えた視点は、自己と他者の相互依存的な関係性に基づく新たな倫理の可能性を示唆しています。それは、自己犠牲でも利己主義でもない、自己と他者が共に成長し、変容していくプロセスとしての倫理です。
利他のパラドックスの認識は、他者の絶対的な他者性を尊重しつつ関わり合うという、より慎重で反省的な倫理的態度の重要性を浮き彫りにしています。これは、単純な善意や正義感に基づく行動ではなく、常に自らの行為の影響を省察し続ける姿勢を要求するものだと考えられるでしょう。
さらに、自己と他者の境界の曖昧さの認識は、個別の他者への配慮だけでなく、自己を含む全体的なシステムへの配慮という、より包括的な倫理の可能性を示唆しています。これは、個人主義的な倫理観を超えて、生態系や社会システム全体を視野に入れた倫理的思考の重要性を示唆するものです。
最後に、開かれた利他の概念は、固定的な道徳規範ではなく、常に更新され続ける動的な倫理の可能性を示唆しています。これは、現代社会の複雑性と不確実性に対応する、より柔軟で創造的な倫理的態度の重要性を示すものであり、最終的に我々一人ひとりに委ねられている選択肢でもあります。
このような新たな倫理の可能性について、次のように総括しましょう。
このように、『「利他」とは何か』で展開された議論は、利他をめぐる深い洞察を通じて、現代社会に求められる新たな倫理の可能性を示唆しているのです。それは、個人の日常的な実践から社会システム全体の在り方まで、多層的に影響を及ぼす可能性を秘めた倫理的視座だと言えるでしょう。
利他の新たな地平へ
『「利他」とは何か』は、利他という一見単純に見える概念の奥深さと複雑さを明らかにしました。身体性、他者性、社会システム、宗教、スピリチュアリティ、そして利他のパラドックスなど、多様な視点から利他を捉え直すことで、従来の理解を超えた新たな利他の可能性が浮かび上がってきます。
この本書が投げかけた問いは、現代社会に生きる私たち一人一人に向けられています。急速に変化する社会の中で、私たちはどのように他者と関わり、どのような形で利他を実践していくべきなのか。その答えを見出す過程こそが、新たな利他の地平を切り開いていくのかもしれません。
『「利他」とは何か』は、利他についての探求の終着点ではなく、新たな出発点なのです。私たちは、この本をきっかけに、自分自身の中にある利他の可能性を見出し、それを日々の生活の中で実践していくことが求められているのかもしれません。
現代社会における利他の実践について考える中で、最近の出来事や書籍から得られる示唆は大きいものがあります。特に、新型コロナウイルスのパンデミックは、グローバル社会における利他の重要性を改めて浮き彫りにしました。国境を越えた医療支援や、ワクチンの公平な分配をめぐる議論など、利他的行動の必要性と難しさが同時に露呈しました。
また、SDGs(持続可能な開発目標)の推進においても、利他的な視点が不可欠です。環境保護や貧困撲滅といった地球規模の課題に取り組む上で、短期的な自己利益を超えた利他的な行動が求められています。
このような状況下で「余白」という概念を通じて、現代社会に新たな価値を見出そうとする姿勢は、利他の新しい形を模索する試みとも言えるでしょう。特に、Open DialogやSelf Coachingといったサービスは、他者との対話や自己理解を深めることを通じて、新たな利他の可能性を探る場を提供しています。
コーチングは自己実現を手助けするものですが、自分の"余白"を誰かのために使えていると感じる意味では、お互いが支え合う関係がコーチングの中にもあるのかもしれませんね。
何事も実践するには"余白"が必要です。何かを始めることは何かをやめることとも言えるでしょう。一度"余白"を持つ時間を作る為にコーチングやダイアローグも是非意識してみてもらえると幸いです。