キーマン@nifty第21回2003年9月20日掲載「荒稼ぎをする人達-2-」

以下の小文はキーマン@nifty第21回2003年9月20日掲載「荒稼ぎをする人達-2-」の再掲載です。
―――――――――――――――――――――――

前回のキーマンでインドネシアの話をしましたが、2003年9月11日発行の官報号外第212号にある外務省告示第317号「債務救済措置に関する日本国政府とインドネシア共和国政府との間の三の書簡の交換に関する件」で日本がインドネシアに貸し付けている円借款二千八十二億五千百五十五万八千四十九円の他、アンタイド・ローンが四百七十八億五千八十三万五百十五円と三千四百三十六万五千三百六十七ドル六十二セントUSドル、そしてバイヤーズ・クレジットは四百二十八億五百二十三万六千百四十三円と三千十二万二百九十四ドル四十七セントUSドルの3件を2013年12月から均等半年払いで約46回払いにする事が決まったと告示されました。
1973年6月29日付けの円借款から始まり、インドネシアに貸し付けたほぼ全ての債務が利子支払いも行われず放置されてきた事実に驚くのですが、債務繰り延べはインドネシアだけではなく、複数の国に対して行われております。早い話が焦げついた不良債務を国民から隠しましたと官報告示している訳で、まぁ日本政府って太っ腹なんですねぇ。
さて前回の続きで、北朝鮮と日本の政界との関わりについての噂話には、例えば故金丸信の後妻は北朝鮮の出だとか言うのから、創価学会の名誉会長である池田大作の帰化人説まで実に様々な話がある。ちなみに池田大作帰化人説を唱えるのは冨士谷紹憲という人だそうだ。 北朝鮮出身の超大物と言えば、プロレスラーであり実業家でもあり、アンダーグランドな世界の顔役でもあった力道山が上げられる。 力道山。本名は百田光浩と言い、1924年(大正13年)に長崎県大村市の農民、百田巳之助・たつの間の三男として生まれ育ち、大村高校での運動成績は優秀であったとされていた。
しかし、それは作られた話で、本当の名前は金信洛。本当の出生地は現在の地名で言うと朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道で生まれ。力士のスカウトマンだった百田巳之助が金信洛を朝鮮半島内でスカウトした。相撲は今でも国粋主義的な神聖なものであるとされ、今もなおガイジンには門戸を開かない特殊性から、このような回りくどい仕掛けが作られた。1939年(昭和14)、金信洛は二所ノ関部屋に入門し初土俵が1940年11月。1946年11月に幕下入りし、1949年に関脇に昇進したのだが、翌年、自らの髷を切り落とし相撲界を去っている。
その後の力道山は、力士・東富士を後援する新田新作が経営する新田建設に資財部長として勤めた。新田建設は当時、GHQから東京復興土木事業を一手に引き受けて巨大な利益をあげていたが、その理由は戦争中、川崎にあった捕虜収容所で新田新作が捕虜に親切にした見返りとして東京の戦後復興事業受注が転がみこみ、突如として大金持ちになった。新田は利益の一部から当時の金で約3000万の巨費を投じて国技館を建設し相撲協会に寄付している。新田新作は競走馬の馬主でもあり、第16回菊花賞の優勝馬メイヂヒカリや第14回皐月賞の3着、第33回天皇賞優勝のトキノメイヂなどのオーナーでもあった。そして東京大空襲で焼失し放置されていた舞台演劇として有名な明治座を松竹から買い取り、明治座株式会社を設立して1億3千万円もの工費で明治座を1950年12月に再建、また銀座の花柳界に貢献した人物でもあった。ただし今だと、風呂屋とプールには行けない体であった。
そんな飛ぶ鳥を落とす勢いだった新田建設に勤める力道山は1951年のある日、銀座の飲み屋で喧嘩になり、コテンパンに負けてしまった。力道山をねじ伏せた相手はハワイ出身のオリンピック重量挙げのメダリスト、ハロルド坂田であった。ハロルド坂田はイギリス映画007シリーズ第3作目「ゴールドフィンガー」で鋼鉄のシルクハットを飛ばす手下役で出演している。ハロルド坂田は当時、アメリカ軍慰問興行の為、プロレスラー達を連れて来日していた。そのハロルド坂田に見いだされた力道山は1952年、建設業を辞め、ハロルド坂田と共にアメリカにプロレスラーになる為の武者修行に出た。
アメリカから帰国した力道山は新田新作の援助を仰ぎ児玉誉士夫に見いだされ、児玉誉士夫の資金で全日本プロレスを旗揚げし、メディア戦略として児玉誉士夫は東京タイムス紙を買収し、夕刊紙「東京スポーツ」と改名し、後に広域暴力団山口組の組長になった田岡一雄や東声会会長、町井久之を共同経営者にしてプロレス専門誌にしてしまった。なぜ児玉誉士夫がプロレスに肩入れしたのか、それは戦争に負け、ガイジン占領軍に支配された記憶の鮮明な当時、ガイジンが日本人にやっつけられることで国粋主義的な雰囲気を作ろうとしていたと言われている。
そもそも児玉誉士夫は右翼の大物である事から、当時「アカの恐怖」に脅えていたアメリカが戦犯として巣鴨拘置所に拘留していたのを解放してCIAの手先として利用していた。それは右翼だけではなく、暴力団もであった。この事が後々、しっペ返しになった。 プロレス人気は児玉誉士夫のお友達である日本テレビ放送網会長の正力松太郎が街頭テレビを考案し関東一円に220台も設置、まだ関東地区では12000台しかなかった頃の大博打だったが、日本中にテレビ中継されたプロレス人気は止まる所を知らぬ白熱ぶりで、おかげで日本テレビは突如、黒字優良企業に変身してしまった。
たしかにプロレス人気は高まったが、国粋主義的思想は児玉誉士夫の思惑とは裏腹に低いままどころか、国論を二分した安保闘争にエネルギーが流れてしまった。プロレスという興業を成功させた力道山は他の顔もあり、実業家としての力道山はリキアパートという高級マンションを手がけ、渋谷の道玄坂から丸山町側に入った所に日本初のボーリング場を作るなど大変な実績を残している。ただし、リキアパートの住人には在日韓国系暴力団東声会のオフィスがあるなど色々な意味で世間とは違う世界だった。
そして力道山の三つ目の顔とは、東声会の最高顧問というアンダーグランドな世界の顔役であった。結果的にそれが禍して東声会と大日本興業社との抗争に巻き込まれ、1963年12月8日、赤坂のラテンクォーターで大日本興業社の鉄砲玉に刺され一時は回復傾向にあったものの、腸閉塞を併発し、12月15日に亡くなった。享年39歳。ちょうど40年前の出来事であった。
そして力道山最後の顔、それは力道山が刺される11カ月前、力道山は児玉誉士夫と自民党の要請で大韓民国親善ツアーに担ぎ出された事がある。日韓国交正常化前の現代では考えられない程、反日感情が強かった頃の事である。力道山は親善大使としてソウルの地に降り立った途端、国賓待遇を受けた。力道山というしこ名は朝鮮半島の山の名前そのままであった事から、日本に帰化してもアイディンティティは守る祖国の英雄として迎えられ、ソウル空港からオープンカーに乗せられ凱旋パレードとなった。が日本国内で力道山の出生に触れた記事を書いたのは東京中日新聞がAP通信の記事を翻訳して載せた、それだけであった。
力道山の孫が今年、釜山で開かれたスポーツ大会に出場した事が報じられた。力道山は昭和18年に相撲の巡業で祖国に帰った時、再会した妻との間に生まれた娘の子供がいた。そのことは長く触れられることはなかった。時代は変わり、力道山の出生を偽る必要も無くなった。

第二次大戦後の日本の復興をモデルにイラクを復興するとアメリカ政府は言った。しかし、新田建設の代わりにベクテル・グループを当てても、新田親分のように現地で仕切る親分がいないイラクで一体なにが出来るのであろうか。イラクに力道山のような一人勝ちのヒーローはいないが、サッカーのような団体戦ならヒーローがいる。ボール一つで誰でもチャンスが巡ってくるサッカーより、道具立てが多く金のかかる野球やアメリカンフットボールの好きなアメリカ人に、なぜサッカーがイラクで流行るのか、日本人みたいに野球人気がイラクにないのは何故か。そこには文化の違いというものがある。日本人はガイジン文化を柔軟に取り入れるが、誇り高いペルシャの末裔たるイラク人はアメリカを受け入れない。文化の違いを武力でねじ伏せることなど出来ない事をアメリカが認める日まで、イラクの騒ぎは静まらないのかもしれない。

キーマン@軍事・edit:高木規行

いいなと思ったら応援しよう!