「あのこは貴族」1

このタイトルを見た瞬間に浮かんだのは振られた元彼のことだった。かれはそれなりに奥まった地方の出身でおそらく私の実家より裕福ではなかったようにも思うが(といっても階層ではほぼ同じだと思う)その堂々たるふるまいを、選民思想を、貴族だと思った。

「あのこは貴族」メイン・ビジュアル

まぁそのうち観られればいいやと思って何年か放っておいていて、岡田斗司夫の切り抜きで久々にこのタイトルを見かけて、観た。
当時思っていた貴族とはちがう、ほんものの貴族の話だった。
最近本当の上流階級の仕組みが気になっていたのもある。

バーキンやマトラッセ、アニエスベーのカーディガンなどわたしにもわかるブランド商品が出てきて、多分他の被服類調度品に関してもわかる人がみれば違うことも見えるだろうなと思っていたら、この記事が役にたった。
ブログのライターさん、ありがとう。

ここに出てきた上流階級の方々の「貴族」感は、きっとわたしが過去に「貴族」と感じたものと、無縁なものではないと思う。
でもそれはきっとこの映画や作品の本筋からは離れてしまうので、またいつかかければいいかと思う。

高良健吾の演じた青木幸一郎の設定は、映画は特によくできているなと思った。原作のあとこのまま具現化すれば、絶対に彼は敵になってしまう。
そうしなかったのは、本来、個人を敵にするというそんな短絡的な社会構造では、この物語が扱う種類の私たちの苦しみが和らぐことはないからだ。

青木に弱音を吐かせれば(女性側からすれば)青木を責めることはできなくなる。原作は責める余地があった(まぁあっただけでそれがテーマだとはもちろん思わないが)

社会を生きるつらさを描くにあたって、浮気者の青木は責める対象として攻撃して終わりやすいところを、決して青木という男性個人を責めさせない。
誰かを攻撃せずに、「分断」をやめるということの難しさと可能性と希望を描く。そこが稀有な出来だと思った。

この映画は「女性同士の分断をやめる」ための物語(シスターフッドといわれる所以)で、そのために格差を描く必要があり、そのために東京と地方をわざわざはっきり書き分け、立場に流される金持ちの女性と、気の強い上京した女性という登場人物が作り出されたのだと思う。
でも本当は女同士だけでなく男女の様々な形での分断もやめられないだろうか、というメッセージが込められているような気がした。
たとえそれが青木幸一郎という男性が弱音などを見せるというファンタジーだったとしても。

少し余談だが、かなり多くの男性が、自分の心根の弱いところを他人に見せるということを苦手としている。政治家という仕事を好きだとかなり深いところまで思っている、あるいは思い込んでいる方も多いだろう。かれらはかれらでもっと複雑なはずで、あのように綺麗に弱さを見せるというのはあまりないことだと思う。

つづきます




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