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元号「昭和」と森鴎外

2023年4月1日土曜日、北九州小倉の森鴎外旧居にて『森鴎外を語る会』が開催されました(主催:北九州森鴎外記念会)。


漢学者:吉田増蔵(学軒)と森林太郎(鴎外)

今回の演題は「吉田増蔵(学軒)」について。一見、鴎外と関係なさそうに受け取れるかもしれませんが、現在の福岡県みやこ町出身の漢学者・教育者であり、実は元号「昭和」を創案した人物として知られているのだそうです(1866-1941)。

学軒と鴎外との関係は、学軒が1920(大正9)年10月に宮内省図書寮編修官に着任したことにより深まっていきます。4歳年上の鴎外が上司(図書頭)として、いわば『鴎外ー学軒ライン』が結成されたことになります。

1922(大正11)年7月の鴎外逝去にあたっては、鴎外遺言書の中で所蔵の和漢書を「吉田増蔵君に贈るべし。吉田君の外善く之を用ふるものなし」と遺すほどに信頼を集め、この後、元号研究は鴎外から学軒に引き継がれてゆくことになりました。


元号:昭和に込められた思い

そして、1926(大正15)年12月の大正天皇崩御に伴い、当時の宮内大臣・一木喜德郞から新元号の創案を命じられた学軒は、「神化」「元化」「昭和」など複数の元号案を提出、他の学者創案の候補なども含めたうえで政府(第1次若槻禮次郎内閣)内部での選定作業が進められ、結果「昭和」が選ばれたという経緯があったようです。

都合2年弱にわたる「鴎外・学軒コンビ」による元号研究(考証・編纂)があったことから、元号「昭和(全ての人民は明るく、全ての国は和やかに、との意味が込められた)」にある程度は鴎外の影響があったのかもしれないと考えられることは、個人的にはとても興味深く感じました。


参照

・森鴎外旧居(福岡県北九州市小倉北区)
「森鴎外を語る会」は1・8月を除く毎月第一土曜日の開催
https://www.gururich-kitaq.com/spot/ogai-mori-former-residence

・吉田増蔵(福岡県みやこ町) https://www.town.miyako.lg.jp/rekisiminnzoku/kankou/person/yoshidagakken.html


以下、後日個人的にまとめたメモ群となります。
(230505:追記しました)

(写真は「福岡県みやこ町」ウェブサイトより)


学軒は村上仏山(1810-1879)の漢学塾「水哉園」で学んだ後に上京、京都帝国大学(支那哲学を専攻)を経て、アメリカ留学の経験があったようです。帰国後は1897(明治30)年に中等教育検定試験に合格、また1901(明治34)年に宮内省判任文官試験に合格(学軒35歳。このとき鴎外は小倉時代)、宮内省御料局に配属されることになります(御料林の管理経営。1908年からは帝室林野管理局に改称)。

(写真は「じゃらんnet - 水哉園」より)


この後、1910(明治43)年からは教職として、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)、山口県立豊浦中学校(現在の豊浦高等学校)で教鞭をとりました(学軒45〜55歳。鴎外は同じく1910(明治43)年に慶應義塾大学文学科顧問に就任、永井荷風を教授職に推薦するなど、小倉転勤直前に中断せざるをえなかった教育分野への関わりを再開している時系列になります)。


なお、気になったこととして「山口県立豊浦中学校から宮内省図書寮編修官への転職(抜擢)経緯」が思い浮かびましたので、要因を整理することにしました。

(写真は「山口県立豊浦高等学校ウェブサイト」より。
「乃木将軍」の名前が残っているあたり、鴎外との因縁も感じてしまいます。)


【要因1】幼少から漢学に親しんでいたこと、また漢学塾「水哉園」門下生としての評判があったと考えられること

漢詩文に抜群の才能を発揮したとのことで、21世紀に入ってから公益財団法人無窮会より漢詩集『学軒詩集』が発行されました。なお、発行元の前身である無窮会(1915(大正4)年4月創設)には、当時の検事総長であり、後の第35代内閣総理大臣となる平沼騏一郎(1867-1952)が関わっています。

<230505:追記>
学軒が学んだ水哉園は全国的にも評判が高く、同じく幼少より漢学に親しみ、漢詩文に抜群の才能を発揮した鴎外にとって、この漢学塾の存在は早くから認識していたであろうことが想像できます。

『小倉日記』に学軒の名前は直接出てこないようですが、1900(明治33)年2月4日に水哉園門下生の杉山貞(1843-1913、当時は小倉高等女学校の初代校長)と面会していたことが記載されています。この時に水哉園のこと、また学軒のことも話題に出てきたかもしれません。なお、村上佛山ゆかりの行橋の地にも公務および私用でも何度か訪れています。

その後、学軒が宮内省図書寮編修官に着任したのが1920(大正9)年10月となりますので、この20年間の間に、学軒の漢詩に触れたり、評判を知る機会はあったように思います。
<追記ここまで>


【要因2】すでに1度、宮内省勤務経験があったこと

「宮内省10年→教職10年→再び宮内省に復帰」という経歴となります。学軒の復帰7ヶ月前にあたる1920(大正9)年3月には大正天皇の体調悪化が公表され、翌1921(大正10)年11月には皇太子裕仁親王が摂政就任と、そう遠くない時期の発生が想像できうる『改元の準備』は、省内では急務であったことが推測できます。当時の宮内省には1期目(1901-1910)時代の同僚が残っていることも充分考えられるため、漢学の素養が深い学軒が推薦・抜擢される状況はありえたのではないでしょうか(なお、その場合は宮内省御料局に所属していても噂になるほどの優れた漢詩作成技術を持っていたことを窺わせる可能性も考えられます)。


【要因3】鴎外との相乗効果を期待、および『後継者』候補として省内で検討もしくは鴎外からの自薦があった可能性が考えられること

学軒は奈良女子高等師範学校での教職経験があり、また鴎外も同じく幼少より漢学書に慣れ親しんでいました。この当時の鴎外の健康状態の詳細までは確認出来ていませんが、この時期の流れを整理すると

1917(大正6)年12月 鴎外が宮内省図書頭に着任(鴎外55歳)
1920(大正9)年10月 学軒が宮内省図書寮編修官に着任(鴎外58歳)
1922(大正11)年7月 鴎外逝去

となります。鴎外の死因とされた「腎萎縮、肺結核」の前症状が学軒の着任前にはすでに発露していたとしても不思議ではありません(1921(大正10)年秋には腎臓病の兆候が見られ始めたとの指摘があるようです)。
つまり、鴎外と学軒は公的には『上司と部下』、私的には『師匠と弟子』という関係性があったと受け取ることも乱暴な推察とは言えないのかもしれません。


以上、3点を挙げてみました。鴎外幼少期の英才教育の成果、そして鴎外の「相手の本質や可能性を見極める才能」が逝去直前まで遺憾なく発揮されていたことを再確認できたあたり、やはり鴎外の常人ならざる異能ぶりを読み取ることができる、素敵な話題提供であったと感じました。
話題提供者の先生には、この場を借りて謝意を示させていただきます。
ありがとうございました。



余談

シカノスケ的には、鴎外が奈良で体調が悪くなった時、サテライト・オフィスである帝室奈良博物館(こちらは帝室博物館総長としての勤務。現在の奈良国立博物館)に現存する「鴎外の門(官舎の門)」から周りの奈良公園界隈をお腹を擦りながら気分転換に散歩していた時間もあったのではないかなあと想像します。

先日、奈良の鹿の生態系が独特の進化をとげていたというニュースがありましたが、当時もきっと鴎外に近づく鹿たちの群れがわんさかいて(その子孫が今も同じ場所でおんなじように暮らしているわけです)、あるいは鴎外がふと気になった鹿になんとなく触れようとしてみたり(溺愛する子どもたちや孫を愛でるように)、あるいは餌付けをしていたかもしれない(物思いや思考整理に耽りながら。当時から鹿せんべいはあったのでしょうか)場面を脳内再生してみると、次に私たちが奈良公園で鹿とたわむれる時の楽しみがちょっぴり増す・・・のかもしれませんね。

研究グループは、狩猟や開拓によって多くのシカ集団が消滅する中で、奈良のシカだけが春日大社の「神の使い」「神鹿(しんろく)」として春日大社周辺で人間の手によって手厚く保護され、その結果、他のシカ集団と交流がないまま独自の遺伝子型を持つ系統として維持されてきたとみている。

「Science Portal」2023(令和5)年2月9日公開
プレスリリースは1月31日公開
https://www.fukushima-u.ac.jp/news/Files/2023/01/230131.pdf


鴎外の奈良出張は「1918(大正7)〜1921(大正10)年の毎年秋」だったようですので、季節も合わせてみると、より鴎外と鹿の構図を追体験できる・・・かも。ついでに正倉院展も見て回ると、当時の鴎外の成果(民間篤志家・研究者に対しての宝物参観を許可)が現在に繋がっていることを感じさせてくれますね。


(写真は「奈良国立博物館」ウェブサイトより)




1920(大正9)年11月3日頃・・・

鴎外「孫の名前に、𣝣(ジャク)はどうだろうか?」


鹿(・・・4m95cmの手紙を送るんじゃないよ。おっととの心持ちやで)



1分53秒に注目です。

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