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記事が書けないから、それについて書く
2023年9月の下書きを元に書いています。
…という出だしで、昔の記事を完成させて投稿しようとしたのだが、これに関してはこのタイトルしか残されていなかった。どうやら昨年の自分は、夏ごろに投稿を再開しようとはしていたらしい。書けないなりになんとかあがこうとはしていたんだなあ。そのような気概は感じるので、現在の僕が引き継いでこのまま書き上げてみよう。
とはいえ最近の自分は、コンスタントに記事を書けている。このタイトルを残したころの記憶はあるが、どういう方針でこのタイトルから文章を展開しようとしていたかは定かではない。記事が書けないことに関してそれなりに思うことがあったんだろうか。いや、しかし、なにか思想があったなら、なにか文章を書けている。タイトルだけ残して本文になにも書いていないところを見るに、そうやって自分に言い訳を与えていたんだろうか。少しは記事を書くつもりがあるんだぞ、というように。一文でこんな矛盾を生じさせ、数か月後の自分を困惑させるタイトルを残さないでおいてほしい。
心理学に、”自己連続性”という概念がある。過去、現在、未来の自分を、連続した個人として捉えられるかという意味合いだったと思う。この自己連続性と、自己を大切にすること(=自己肯定感)には相関関係(あるいは因果関係?)があり、自己連続性の低さと先延ばしや依存症は関連している、と本で読んだ気がする。例のごとく、記憶を頼りにした曖昧な引用だから気になる人はちゃんと自分で調べるように。
過去の自分が残した謎のタイトルを見ると、この概念が頭をよぎった。内容を思いつかないながらもなんとか残した、ある種のメッセージともとれるタイトルから、数か月後の自分が必死に文章を紡いでいる。昔の自分の仕事を肩代わりしている気もするし、あるいは、未来の自分のためにきっかけを作っていたとも言える。どちらの視点に立つかという問題。
こう考えると、時間的に前や後にいる自分は、それこそ他人だと思える。明日の自分に任せる、なんて表現もある。
先送りにした仕事をこなした時に喜ぶのは今現在の自分か、先送りにした時点の自分か。仕事が完了される可能性が高い時には、先送りにした時点で罪悪感を感じる必要はないのか。過去の自分が残した仕事を引き継ぐとき、それは”責任”があるからという簡単な理由によるものなのか。はたまたよく知っている”他者としての自分”のためを思っての利他的な行動なのか。わからないことだらけだ。
とにかく、こうやって記事を書けば、少しでも投稿が増えたことに未来の自分が少し満足してくれるだろうから、書く。
僕は、自己が連続しているという考え方そのものに疑問を持っていて、これはあくまで西洋の価値観なんだろうなと思っている。例のごとく難しい話の引用はできないけど、人はみな生まれついての罪があるというキリスト教的価値観というか、必ず「私は…」と主語を用いる文法構造というか、その辺に影響されているのではないか。自己が連続しているというのは人間の一般的な性質とは言い難いのでは?
僕は基本的に「人は変わる」という考え方をベースに人間を捉えている。これは学生時代に学んだ生物学とか、仏教に影響を受けてのこと。「人は変わる論」について、詳しくはまたいつか話したい。
…あぁ、いつにも増して今日はカッコつけ過ぎてるな。どれもこれも、この記事のきっかけを作った昔の自分のせいにしよう。
で、ここから、「記事が書けないから、それについて書く」なんてタイトルをかろうじて残してまで、僕が文章を書こうとしていたのは、というか今現在も文章を書き続けようとしているのは、一体何故なのかというところを述べていきたいのだが、この記事の内容としてはこんなもんでいいだろう。
僕が文章を書く理由なんていう、どう考えても自分語りマシマシな内容は別の記事に譲ろう。きっとこれぐらい書けば、去年の自分も満足してくれると信じて。
それでは、また。