十五にして喋り、二十にして歩き、二十五にして席に着く
さらに前回からの続き。自分語り多めですが、なかなか面白い結論にたどり着けそうです。
当たり前のことは気づけないし、誰も教えてくれない。
これについて自分の経験から何か考えられるものはないか、少し過去を振り返ってみる。僕はこれまで、「みんなが当たり前にできていることができずにそれで損をしていた」ということが多々ある。
日本語の「き」が言えない
僕は中学生のころまでいわゆる側音化構音というやつで「き」とか「り」が正しく発音できなかった(仮面ライダー555に出てた頃の綾野剛みたいな感じ)。小学校の頃は特にこれで悩むとかは無く、「おにぎり」や「きりぎりす」、「ぎりぎり」などのワードをあまり使わないことで難を逃れていた。
中学校に上がってから状況が変わる。なまじ勉強ができてしまったが故に、なんらかの代表に推薦されるようになり、それで人前で喋る機会が多くなってしまったのだ。するとスピーチの後に、先輩や同級生から発音を指摘されたり、あるいはからかわれることが増えた。普段の会話では気にならなかった部分が、人前でのスピーチでは目立つようになったのだろう。
そこから、イ段の発音がスムーズにできないことが悩みの種になってしまう。口数が減るとか、スピーチを拒否するとかいうことではなかったのだが、なにせ言葉選びに頭を使うようになってしまったのだ。小学校の頃よりも苦手なワードをむりやり避けるようになった(そうそう「むりやり」も言えなかった)。なにより大変なのがスピーチの原稿を考えるときだ。単語だけじゃなくて、文末でもできるだけイ段を避けたくて発音しやすい表現を選んでみたり、一文がイ段で終わるときは次の文の頭の音を工夫することで言いづらさを軽減するなどしていた。
言えないならば言わなければいいという対処方法だ。でも原稿を書くのに、とても頭を使い、時間がかかるのですごく大変だった。
普段喋るときにも少し気になるようになっていた。
高校に入りスマホを持ってから、なんでもすぐに検索できるようになった。ふと思い立った時があり「き_発音できない_治し方」で検索。側音化構音という症状名とその矯正方法、そしてそれで悩んでいる人が多くいることも知る。それからこっそり矯正を始めて、すぐに効果が表れる(舌の動かし方のトレーニング、気になる方は自分で検索を)。中学生のころの悩みは半年ほどで解消してしまった。
誰にも相談せずにこっそり矯正してしまったので、高校以降の知人はこのことを誰も知らないし、中学までの知人も、家族も、誰も僕の発音がスムーズになったことを指摘してこない。思春期の悩みを解消しても周りの反応はそんなものだ。
歩き方がおかしい
子供の時から、僕は歩き方がどうも人と違うらしく、跳ねるように歩いていたらしい。らしい、というのはこれは自覚が無かったから。
「歩き方がおかしい」、そう家族に指摘されたのは小学生の頃。家族で散歩しているとき、僕がいつもみんなより早く疲れてしまうのに対しての意見である。その時は、もっと手を振ってみてとか、跳ねないようにしてみてなどのアドバイスをもらい試してみたが、考えれば考えるほど正しい歩き方というのが分からなくなってしまって機嫌を悪くしてしまった覚えがある。
結局、歩き方は改善されずに成人を迎える。それまでにも、よく人のことを見ている友人からは、歩き方がおかしいぞ、歩くときぴょこぴょこしてる、というのをたまに言われていた。それに旅行や学校行事で長距離を歩くと異様に足が疲れる。しかし、どういうふうにおかしいのかがわからないから改善のしようがない。足が疲れやすいけど持久力でカバーすればいいや、くらいに捉えていた。
しかし、学生の頃に行った海外旅行で事件が起こる。
ロンドンの街をさんざん歩き回った後にホテルに帰り、いつもとは比べ物にならない、あまりの脚の痛みにズボンをまくると、両脚のふくらはぎに青く大きいあざができていたのである。なんと歩き過ぎただけでふくらはぎに内出血が起こったのだ。おそらく、跳ねるように歩く当時の僕の歩き方では、ふくらはぎに異常に負荷がかかってしまうのだった。一緒に旅行していた友人は、それまでずっと僕の歩き方について指摘していた人だったからか、ついに形となって体に被害が出る様子を見て、ドン引きしていた。
これは流石にただごとじゃないと思い、旅行の最中、次の日から歩き方の矯正訓練を始めた。
帰国後、ネットで「正しい歩き方」を検索して本格的に歩き方を正した。建物の窓ガラスで自分の歩くフォームを確認して、正しいフォームと比較する。街で綺麗な歩き方の人がいたら真似してみる。そうやってここ数年、歩き方に気を付けて過ごしていると、なぜ自分の歩き方がぴょこぴょこ跳ねているようなのか、その原因が物理的に説明できるようになったし、それをわかったうえで改善することにより徒歩移動時の疲労度もかなり軽減した。成人してからやっと、二足歩行の生き物として正しく歩むことができるようになってきたというわけ。
最近またロンドンに旅行に行ったのだが、今回は、一日中歩き回ってもふくらはぎが青く腫れあがることはなかった。
とりあえず結論。というか戒めと啓蒙のようなもの
さて、以上の2つのエピソードから見えてくることがある。
それは、喋り方、歩き方について、誰も正しい方法を教えてくれなかったということである。もっと踏み込んで言うと、僕の喋り方や歩き方の違和感に気づいていても、誰も正しい方法を説明することができなかった。それは、それらをみんな当たり前にできているから、ハウツーを意識することもなかったからだろう。
僕にとって、喋り方や歩き方の問題の解決に役立ったのは、喋り方や歩き方にも正しいスタイルがあるだろうということへの気付きと、その正しいスタイルの獲得だった。発声時の正しい舌の置き場、踏み出す時の正しい足の接地場所。何事にも正しいスタイルというものがある。
さらにここに、前述の机と椅子の便利さに気づいた件を加味して考えてみよう。身近にあり過ぎて誰もその必要性を口にしないという話だった。
人は、生きていると必ず問題に直面する。その時、これまで当たり前にしてきたこと、できてきたことが問題に深く関係している場合、解決を試みてもうまくいかないことがある。
それは、今まで当たり前だと思っていたことが間違っている可能性があるからだ。自分が当たり前だと思っていたことが実は間違っていて、それに気づけていない可能性がある。それで解決方法が、結果的に、表面だけの取り組みになる。なにもやらないよりもちろんマシだが空振りになることが多い。そういう時は自分の当たり前、それこそ喋り方や歩き方くらい初歩的なものがもしかしたら間違っているのかもしれないと疑うことが必要だろう。
そして、もしなにか前提条件をずっと間違っていたのだとしても、それを他人が指摘してくれるとは期待しないことだ。これがここまで3本の記事を通して僕が一番言いたいことなんだと思う。思う、というのは僕も自分がどこに着地したいかよくわからずに書いているから。
他人のやり方の違和感に気付けていても言語化して他人に説明できる人はおそらくは世間にめったにいない。前述のとおり、人は自分が当たり前にやってきたことの方法を他人に説明することができないらしい。
違和感だけを感じて具体的な方策を思いつかない場合は、大人になるとなおのこと、むしろなにも言ってくれないだろう。なんか変だよ、という違和感だけの指摘は仲のいい友人であっても言いにくいものがある。逆説的に、他人がなにも指摘してこないからといって自分の方法は間違っていないんだと安心してはいけないということ。自分で気付いて、自分で自分に説明していくという作業が必要となってくる。
また、当たり前だとしていたものが当たり前であればあるほど、それが間違っている場合、その間違いは顕在化しにくい。これも前述のとおり、当たり前レベルが高いものをそもそも人は話題にもしなくなる。みんなが知っておくべきことであればあるほど、それは人々の無意識の中に埋もれてしまう。ものの考え方や、問題への取り組み方など、生きていく中で最も重要とされるようなことは、それが重要で当たり前であるということから、わざわざ人に教えたりはしないものになってしまっている。
当たり前、前提条件について、まわりがその話をしていないからといって、それが重要でないとは限らない。むしろ誰も口にしない部分にこそ、隠れた本質があるかもしれない。そこに気付けるようにセンサーを展開しておきたい。
終わりに
まさか、机と椅子を買ったという報告からこんなに派生して記事が書けるとは思っていなかった。環境を整えたことで本領が発揮できてる???
ここまで読んでもらってありがとうございます。みなさんの記事も楽しみにしてますので、これを読んだら机に向かってすぐさま記事を書いてください。
それでは、また。