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【コンサートミニレポ#7】「観客」というファクター【「東大生 VS 川島素晴 feat. 国立音大生」をふりかえる②】

3月7日に開催された東京大学文理融合ゼミナール成果発表演奏会「東大生 VS 川島素晴 feat. 国立音大生」の動画が公開されました。素晴らしい編集ですのでぜひご覧ください!(ちなみに編集は国立音大のデニズさんにお願いしました。彼に頼んでよかった!)
で、動画もあがったことだし、当日のパフォーマンスについて2回に分けて書いておきます。演奏順ではないです。後半③はこちら
(サムネイルはリハーサルの様子)


柏木泰知《Time Zone》

作曲の授業で成果発表会を開催する意義は、だいいちに「観客」というファクターを導入して作曲・演奏に向き合うことができるようになることだ。授業内では、観客が生まれる(演奏者以外は必然的に観客となる)シーンがあるとはいえ、それは楽譜を見て、作曲者の素性もよく知り、授業の趣旨も理解しているという、ある「文脈」をもっている観客に過ぎない。そうではなく、「観客」というファクターが導入されることの面白さは、どのような観客がそこに居合わせるのか当日まで分からないということ(これは音楽的に「聴取の不確定性」の一要素とみなせる)である。

そのような意味で、一曲目の《Time Zone》は重責を担っていたかもしれない。出演者つながり(とくに東大生側の)で来てくださった方などは内容をよく分からないでいただろうし、「現代音楽」ないし「川島素晴」といった情報からある程度の推測ができる人もいるとはいえ、そのような人も「総合大学で現代音楽の授業をやる」というのがどのようなものか計りかねる部分もあっただろう。

《Time Zone》は、演奏空間を地球に見立て、演奏者がそれぞれ各国の住人となって、その昼の時間には動き回って各国の言語で挨拶し、夜の時間にはその国の位置で眠るという作品である。時差によって作り出される生活時間の濃淡(アジア~ヨーロッパが昼の時間には多くの人が起き、太平洋地域が昼の時間にはほとんどの人が眠っている)は、興味深い聴覚的・視覚的効果を発揮した。

この作品が一曲目にふさわしかったのは、観客の受容についてのある種の折衷性ないし両立性にあったように思われる。それは、一般的な演奏会(たとえば楽器が奏される、メロディーや拍がある、等)とは異なるものであるという不意打ち感を端的に示すにもかかわらず、同時に端的な分かりやすさと面白さを含むとっつき易さもある、ということである。実際、観客にも評判が良い印象であった。

他方で観客からのアンケートでは、グローバル化する現代においては一つの国に一つの言語を対応させること自体に無理があるのではないかという指摘もいただいた。たしかにそのとおりである。しかし同時に、このような指摘が生まれることこそがこの作品の度量の広さのようにも思われる。実際、この作品については練習のたびごとに、「経度だけでなく緯度も踏まえた作品にできないか」とか「エスペラント語はどうか?」「空中浮遊すればよい!」といった風なアレンジ案が提示されていた。現実世界を模倣するというある種古典的な芸術の定義(=ミメーシス)にも通じるこの作品の本当の価値は、いかに/どこまで模倣できるかという演奏者/観客の飽くなき探究心をくすぐることにあるのではないかと思う。

そういうわけで、この《Time Zone》はぜひ作曲者自身か他のひとによって再演されるのが好ましいだろう。なお、これは最近偶然知ったことだが、教員である川島素晴の作品の中に、冒頭で「日本とアセアン、全11ヶ国の言葉を一言ずつ発話する、そしてそれをオーケストラで模写する」《シンフォニア『パローレ』》(2003)がある(《シンフォニア『パローレ』》の演奏はこちらで聴くことができる)。

サイン・バイ・ノー?

渡邉正紀《顰蹙》

観客の顰蹙を買う、という至って単純な作品。

仕方のないことだが、体調不良のために参加できなくなってしまった作曲者の代わりに、私はプログラムノートを書かざるを得なくなった。それもまあまあ顰蹙である。とはいえ、この作品において作曲者の存在が希薄であったのは、作曲者が欠席したという理由だけではないだろう。顰蹙を買う具体的な方法を思いつかなければならないのは演奏者であるという点で演奏者もまた作曲者のようであるといった仕方で、演奏者と作曲者の区別が曖昧になるという実験音楽/現代音楽の特性がうまく表れている。

当日は4人のパフォーマーが顰蹙を買ったのだが、私は裏にいたこともあってそのパフォーマンスを見ることはできなかった。動画で実際に観ることができたが、なかなか顰蹙ものである。

ところが、観客は厳しかった。この作品は「聴衆はその演奏が『顰蹙を買っ』たと判断したら、手を挙げる。」というパートがあるのだが、観客の多くは挑発的なパフォーマンスに対して「顰蹙を買う」ものとは評価しなかったのだ。

この点について、観客のひとり(私にとって大学院の先輩であり、先日はじめてお会いすることができた)からアンケートにおいて次のような意見をいただいた。

作曲者がどのような意図を持っていたかはわかりませんが、この作品は、おそらく作曲者との意図とは逆に、いかに「現代音楽」において「顰蹙」が買えないのかを可視化した作品として受け止めました。観客は、いかに目の前で変なことが起ころうとも、それは「現代音楽」の一環なのだとして理解するように期待しています。そのような状況の下で、いかに「顰蹙」を買おうとふるまっても、顰蹙を買うことができないという状況をこの作品は作り上げていたと思います。(ある面では、現代音楽になにができないかを表していたと言っていいかもしれません。)

今回の演奏会で何が起こったのかが完全に説明されているように思う。そしてこの感想は観客の不確定性という問題を示唆するとともに、この授業で起こったひとつのエピソードを思い出させる。

それは、既存のフルクサス作品を演奏する回において起こったことだった。90分の授業の中でいくつかのフルクサス作品を試演したあとで、最後にベン・ヴォーティエの《Piano Concerto No.2 for Paik》をやってみることになった。ヴォーティエはフランスを代表するフルクサスのアーティストである。この作品は簡単に言うと、「ソリストのピアニストが演奏会場から突然逃げ出し、それをオーケストラメンバーが追いかけて捕まえる作品」である。それを実演していたところ、(万が一これが相手方に読まれるとまずいので詳しくは書かないでおくが)授業教室を管理しているスタッフに怒られてしまった(川島先生が、である)。そういう流れでフルクサスの授業は変な空気になって終了したのだが、川島先生は「顰蹙を買うのもフルクサスの重要な要素ですから」とか何とか言ってうまいこと授業を締めようとしていた。

私の推測に過ぎないが、《顰蹙》というこの作品はこの事件ないし川島先生の発言を踏まえているのではないだろうか。ここで私が言いたいのは、現代音楽が理解ある観客の顰蹙をいくら買えないといえども、思いがけないところに顰蹙を買うことのできる観客は隠れているのだ、ということである。この動画が公開されたいま、大学関係者の誰かがこれを見たら「東大でこんなことをやるなんて」と顰蹙を買うことになるかもしれない。3月7日には半ば強引に終了させられた《顰蹙》の演奏は、そのときようやく(本当の意味で)終了する、ということになるだろうか。

註:あらためて『Fluxus Performance Workbook』を読み返してみたら、《Piano Concerto No.2 for Paik》(1965)とほぼ同じ内容の《Piano Concerto for Paik No.2》(作曲年不明)があることが分かった。これはアメリカの詩人でフルクサスのメンバーであるエメット・ウィリアムズによるもので、ヴォーティエのものと細かい字句が異なるのみである。これはたぶん授業中にも指摘されていなかったし、少しネットを漁ってみる限り事情は分からなかった。
このワークブックが(フルクサスおよびマチューナス同様に)かなり出鱈目であることは一柳慧の発言からも予測できることなので、記述を鵜呑みにすることもできないのだが。

若林出帆《YouTube上のアリア》

この作品は今回もっとも作品っぽい作品である、というのはちょっと面白い。この演奏会の動画全編を見ればわかることだが、作曲者はいちばんのトラブルメーカーであり、相当やばいやつである(顰蹙のパフォーマンス等も参照)。しかし同時に、たしかな作曲技術とチェロの演奏技術も備えており、音楽に対する造詣も深い。

この作品も、きわめて古典的な「作品」風に書かれており、プログラムノートにも「シンプルな三部形式の美しいアリアです。」とあくまで真面目を装っている。ところが、最後には壮大なギミックが仕掛けられ(川島先生のブログ参照)、きわめてくだらないオチをつける。こうした真面目と不真面目の臨界に作曲者はいつもいるのだろう。そして、この作曲者だけでなく、現代音楽/実験音楽というジャンル自体が、このような臨界領域に成立しているものであると考えることもできる。

江英齊《素数の音楽》

授業では三輪眞弘の《またりさま》を演奏したが、《素数の音楽》も「逆シミュレーション音楽」に模範的にもとづく作品である。はじめ提出された作品は非常に複雑なもので、初の合同練習ではやや諦めの雰囲気も漂ってきた。

ところが、次の練習には大きく改良されたヴァージョンが提出された。このヴァージョンの良さは、単に演奏者にとって取り組みやすいものになったというだけでなく、観客にとっても分かりやすいものになったという点にある。「素数の音楽化」というコンセプトも、初見の観客がすぐに理解できるものでなければ効果は薄れてしまう。上演版の《素数の音楽》では素数が特定の音の開始と終了に寄与していることが明確に示されることとなった(とはいえ、完全な仕組みまで理解できた人はそういないだろう)。

そして、コンセプトの面白さに終始するのではなく、音響として面白いものになったのがこの作品の思わぬ成功だったといえよう。白鍵のオタマトーンと黒鍵の篳篥の効果が絶大で、まるで雅楽であるかのような響きを作り出した。システム100%で構成されるにもかかわらず、古代の儀式であるかのような様相を呈する結果になるというのは《またりさま》を代表とする「逆シミュレーション音楽」の主眼のひとつである。

福田孝樹《Five in a Row》

連珠を音楽化するという作品。「逆シミュレーション音楽」とは異なるものの、非音楽を音楽化する過程でシステムが噛み、それを複数の人間の流れ作業によって行うという点では類似点も多い。

このような作品の場合、大きく分けて二つの考え方がある。ひとつは、最終的に完成した音楽を作品とみなす、という考え方。もうひとつは、結果的に作り出される音楽を生成するプロセス自体を作品とみなす、という考え方である。

この作品の場合、「連珠を作曲の過程に用いたもの」と説明され、最後に演奏される結果のことを「楽曲」と呼んでいる。つまり、ピアニスト以外の7名(対局者2名も含めて!)は音楽を生成する過程の単なる働きアリに過ぎないのだ。ピアニストだけが演奏者であり、他の7名は「音楽」という商品を生産するために、それぞれ与えられた単純作業をこなす工員であるとみることができる。「逆シミュレーション音楽」ならぬ「マニュファクチュア音楽」とでも言えようか?

なお、結果的な出音はやや調性的になったが、これは音楽変換に関与する偶然性によるものである。偶然性が調性を忌避しない、ということも重要な事実である(十二音技法とは大きく異なる)。

Robert Bozzi《Choice 12》

フルクサス相撲。最高!でも東大生弱すぎ。

塩見允枝子《Boundary Music》

もとは、三輪眞弘《またりさま》の授業開始前に演奏することを私(西垣)が提案したことからはじまる。《またりさま》は鈴とカスタネットを使用するため、それを運ぶのに音を出さないようにするというのはかなり難しい、という趣旨だった。「スキマ時間」というべきか「ながら音楽」というべきか、そのようなあまり肩肘張らないリアライゼーションがあり得ると思っていたので、今回の演奏会でも曲間の準備を無理やり作品としてしまう方法を実現した。

もっとも音の出やすい演目である《Branches》の前に行ったわけだが、それがどうだったか。植物の音を聴かせる《Branches》の前に静的な時間を作り出してしまったことで、《Branches》の前に植物の音が前景化してしまう事態はあまり望ましくなかったように(動画を見返してみると)感じられる。うるさい作品の前にやるべきだったかな……反省点。

若林出帆《ブィドロ》

動画で見てみると、他の出演者も観客も見えていないかのように扱っているのがツボ。

山口雄大《ヴァイオリン・コンチェルト》

拡張奏法に正面から向き合った本コンサート唯一の作品。いま拡張奏法をやることの困難さは、拡張奏法自体に一種の「古さ」が付きまとっていることである。当然ながら、「拡張奏法=面白い」という時代ではない。したがって、拡張奏法の現在的な活路は、そこに絡める仕掛けと意味付けにあると言ってよい。たとえば、一昨年の中川統雄作曲《文体練習》は山澤慧氏による多様な拡張奏法をクノーの『文体練習』に引っ掛けたもので、拡張奏法の新たな仕掛けの模範的な作品であった。

《ヴァイオリン・コンチェルト》は、コンチェルトの構造を引き受けながらソリストが全編を通して拡張奏法で演奏するというものである。仕掛けの構造としてはベリオの《シンフォニア》《オペラ》あるいはシュルホフの《ソナタ・エロティカ》《シンフォニア・ゲルマニカ》に類するものと言えよう(《ソナタ・エロティカ》は「エロティカ」と言っているからちょっと違うかも)。

《素数の音楽》と同様に、この作品も音響的に充実していたのが面白いポイントであった。《ヴァイオリン・コンチェルト》においては、ソリストの拡張奏法が音量的に小さいこともあって、ソリストとオケの音量バランスを緻密に調整した練習の産物である。

後半③に続く

(文責:西垣龍一)

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