林光《流れ》(1973)まわりみち解説(0)解説のまえに
この記事について
この記事は、日本の現代音楽を代表する作曲家の一人、林光の作品《流れ:簡易楽器をともなった 声と動きのための ある架空の儀式。3人の女性の演者による。》(1973)の解説文のまえおきとして書かれました。この作品を取り上げるのは、後述するように、私(たち)がこの作品を演奏するからという単純な理由からです。この作品については考えてみたいことがたくさんあるので、そう、「まわりみち解説」ととりあえず名付けてみました。今回は、その遠回りする道のいりぐちです。
はじめに 林光との出会い
私の林光との出会いは、今から思えば小学生のころだったと思う。妹がピアノコンクールの課題曲として《ちょっとしたけんか》というほんとうにちょっとした曲を弾いていたのだ。この曲は『ピアノの本』(1976)という楽譜に収められているのだが、この『ピアノの本』の誕生の経緯が面白い。
そのあと林光という存在など忘却の彼方だったが、再び林光と出会いを果たしたのは高校生のときだったように思う。片山杜秀のラジオ番組「クラシックの迷宮」(NHK-FM)で林光のラジオオペラ《新しい星の生まれるとき》(1955)が放送されたのだ。当時高校3年生だった私は「クラシックの迷宮」が大好きで、受験勉強をしながらよく聴いていたものだ。この作品については、この連載でもまた触れることになるだろうからここでは詳しい話はしないけれど、とにかく私に強い感動を与えた。
《流れ》——この作品はただものではない!
大学生になって、YouTubeなどで林光作品をよく聴くようになり、ときどきオペラシアターこんにゃく座や東京演劇アンサンブルの公演を観に行くようにもなった。同時に、国立国会図書館に収蔵されている林光の手稿譜を見に行くようにもなり、彼の知られざる作品を発掘したいと考えていた。
国会図書館に所蔵されている手稿譜の一覧表を眺めていたとき、《流れ》という作品が目に入ってきたのは、今年2023年の4月中旬のことだった。「簡易楽器をともなった、声と動きのための、ある空間(ママ、正しくは「架空」)の儀式」?「図形楽譜」?「数字譜」?「演奏指示書付」?
インターネット上にこの作品についての情報はほとんどなく(国会図書館の資料だけが頼りだった)、録音などあるはずもなかったが、ただものでないことだけは分かった。だいいち、林光が図形楽譜を使用するということがピンとこないわけである(このあたりのことはのちのち検討していこう)。林光の作品群のなかの「特異点」に違いないと思った。と同時に、この作品がほとんど忘れ去られている(いや覚えているよ、という人がいたら申し訳ないのだが)という得体の知れなさ。郊外に取り残された廃遊園地のようだ。
《流れ》再演にあたって
今回、4月に出会ったばかりの大学院の同期二人が協力してくれて(ふたりとも音楽研究じゃないのに!)再演できることになった。歴史の中に埋もれてしまった作品の蘇演を、こんな「しろうと」がやって許されるものか多少心細いところではある。しかし、「しろうと」がやるべきなのだ、という気もする。なにしろ、「簡易楽器」をともなった、「声」と「動き」のための「儀式」なのだ。あえて専門家ではなくて「しろうと」に開かれた音楽として想定されているではないか。ついでに、この作品が作られた頃に林光が著した本は『音楽教育しろうと論』である。ここでは、もっと自由であっていいはずの音楽が、音楽教育が熱く語られている。
(林光はもちろん素人なわけはないのであって、それでもあえて「しろうと」を名乗っている。もちろん音楽教育について専門家でないということだろうが、他方で「しろうと」という言葉には「外側にいるからこそ見えるものがある」という秘められた自負のようなものも感じられる。私たちもプロの演奏家ではないが大学院生としてそれぞれの専門的な知見から《流れ》という作品に向き合いうる、という精神をこめ、この「しろうと」という言葉を借りた。)※この段落は2023年6月9日追記。
この連載について
《流れ》を蘇演する第29回東京大学教養学部選抜学生コンサートは、6月17日(土)14時30分より、東京大学駒場コミュニケーションプラザ北館2階音楽実習室にて行われます。
6月17日のコンサートまでに、この作品をめぐるいろいろなことを遠回りしながら書いていきたいと思っています。今のところぜんぜん書いていないので、間に合う気がしないけれど、卒論だって間に合ったのだから間に合わないはずがないと言い聞かせながら随時更新していきます。
https://piano.c.u-tokyo.ac.jp/pdf_file/29thconcert.pdf
(文責:西垣龍一)