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平和な頃なら

ふと顔を上げると、斜めに交差した網が張り巡らされている透明な板が目に入った。
私は何者かに囚われたのか。
いやその割には、空調、人々との距離感、板の腰掛け心地、全てが快適に値する施設だ。
私は顔を上げる前の記憶を辿る。
しかしどうやっても思い出せないのだ。

網の間から外を見ると、何やら白い長方形の紙で口と鼻を覆った人間たちが、感情だけ何者かに操られているような顔で歩いている。その目は濁り、余程の悪事を働いたと推測される。
ここは罪人達の更生施設か何かなのか。
しかし長い時間眺めていても想像以上にそこは争いなどもなく、冷酷で、平和な時間を人々は歩き続けている。

そう言われてみれば、私と同じ施設内の人間たちも入館してくる時は皆一様にこの四角い紙で口と鼻を覆っているが、飲食するときのみ外すことが許可されているようで、やれやれという感じで白い紙を外して溜息をつく。
ここの施設に入ると、人々はやや安堵の表情をする。

人々は施設内に入るやいなや施設の住人らしき者と木の板一つ隔て会話をする。すると住人は黒い液体のような物を白い紙で出来た容器や透明な容器に注ぎ、それを入館者に渡す。ここではそういった仕組みが構築されているようだ。
その容器には緑色の恐ろしい女が描かれている。

この液体は燻されたような焦げたような特異臭のするもので、皆これをゆっくりと啜る。
時にこの黒い液体に白い液体を混ぜて肌色にしてから啜っている者もいた。
ごく稀に緑の液体を啜る者もいる。
各々好きな色を楽しんでいるように思える。

私の手元にも同じように白い紙の容器があるので他の人間たちに倣って一口啜ってみる。
苦い。
そして、まずい。
いや、まずいを超えてこれは危険な味だ。
記憶を辿るとある一つの言葉が甦る。
私は思い出せない過去の記憶でこれが何か知っている。

これは「毒」だ。

私は焦って黒い液体を吐き出した。
私が身に付けていた白い布が褐色に濁った。
真っ黒かと思った液体は意外にも透き通った褐色だった。こうしてまじまじと見ると、到底毒とは思えな綺麗な色だ。
私もこの施設の者と同じように、私の布にこぼれた色を楽しんでみる。
これでは騙されて啜ってしまうのも無理はない。

周りの人間は焦って液体を吐いた私を白眼視する。
恐らくここにいる人間達はこの毒を飲み過ぎて危険を感じられない舌になっている。
この毒は人々から味覚を奪い、徐々に体を蝕むのかもしれない。
察するにここに描かれている緑の女がこの毒を作り出したのだろう。
そこで私はここがどこなのか確信した。

ここは人体実験の施設だ。

それにしても人体実験の施設にしては皆朗らかだ。
笑顔で談笑する者や、紙の束をめくり眺める者、堅そうな灰色の板を指で押して音を奏でる者。
そうか。
ここの人間達は自分たちが人体実験をされていると気がついていないんだな。

私は騙されないぞ。
透明な板から「ここは幸せな施設ですよ」と言いたそうに、わざとらしく光が私の体を刺してきた。

さて。
どうすればここを抜け出せるのか。
まて。
どういう状態が「抜け出した」になるのか。

とりあえずこの施設を出ることにしよう。
私は毒を吐き出したが、ここの施設の住人は「ありがとうございました」と抜かしやがった。
その表情たるもの虚無の極みで、ここの施設の住人は恐らく心を抜かれている。
お前は知らないだろうが、私は毒を飲んでいないし、お前の心はお前の中にないんだぞ。
そんな思いを込めて、人を殺せるほどの眼力で睨みつけてやった。

それにしても外は暑い。
こうも暑いのに白い紙で呼吸の出入り口を覆って皆は息苦しくならないのだろうか。
でも誰一人としてその紙を外で外す者はいない。
あの紙を付けていないのは私くらいだろう。

私はこの世に生きる、ただ一人の、心を持った人間なんだ。
私は何にも洗脳されてない侵されてない自分を誇らしく思い、何も覆ってない口で大きく深呼吸して見せた。
そしてこう叫んだ。

「我を見よ!我は感染してない!我は毒を感じられる味覚もあるぞ!我だけは健全だ!」

私の自由の宣言に空間が揺らぐ。
周りの人間達がざわつく。
あまりにも突然声を出したので、喉に胆が絡まってしまい大きく咳き込んでしまった。
悔しいことに咳が止まらない。
その時だ。
背中に「警視庁 POLICE」という白い文字を毅然と掲げた偉そうな男達が私の元にやってきて、嫌がる私の体を押さえつけ、私を捕らえた。
私は咳き込みながらも叫ぶ。

「我の心は、この自由な身は、イカれてない頭は、この世界にとっては悪なのか!イカれているのはお前たちなんだぞ!お前たちは、実験動物!ここは異常世界!お前たちはゆっくり殺されているのだ!いやこの世界の言いなりになっているお前たちはもう死んでいるもの同然!」

私は全てを知ってしまったのだ。
私はどこに連れて行かれるのだろうか。
私はきっとこのまま消される。
この世界で唯一の正義の私はもうすぐ消えるのだ…。


「さっきのコーヒー吐いた客、すごい睨んできたな…マジうざかったー。あ、なんか外で叫んで警察に捕まってるわー。
うけるー。」

スタバでは若い女の店員がそう呟くと、マスクの中で大きく欠伸をした。

白い紙1つで平穏と調和を手に入れられる、平和な世界はまだ続いていく。

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