走ることが夢だった2 (番外編 たった一度の優勝)
私はレーシングチームを持つ自動車整備の専門学校に進学しました。
入学早々レース担当の先生からは「レースの世界は、金、コネ、実力。お前みたいな貧乏人のやるスポーツじゃないんだ」と先制パンチ。
カッとなりオレにだってできるんだと啖呵を切って、学生生活が始まった。
学校見学に来た半年前は、学校内にガレージがありレーシングチームが存在しました。
入学してみると、前年度でレーシングチームは解散。
後から聞いた話だと、レギュレーション違反の罰則で解散に追い込まれたらしい。
ただ、元々校則で学生はドライバーにはなれないと決まっていたので私には大した問題ではなかった。
前年度のカートで優勝できなかったので、ゴールデンウィークのレースにターゲットを絞り出場することにした。
佐川急便で5年勤めれば家が立つ。なんて噂を聞いていたので、アルバイトは佐川急便の構内仕分け作業にした。
昼は学校、夜はアルバイトという生活。
噂通り、アルバイトでも月に35万稼げた。
一月分のアルバイト代で5月のレース資金が稼げた。
学校生活もスタートこそ一悶着あったもののその後は順調で、学級委員も勤めていた。
5月のレース。
ゴールデンウィークを活かし、金曜から練習走行。
前回のレースの手応えを忘れていなかった。
土曜も練習。
さらに追い風が、その年の初めに起きた阪神淡路大震災で、ダンロップの工場が被害を受け、タイヤが供給出来なくなった為、ブリジストンタイヤの仕様が許可された。
使ったことはなかったが店長の話では、0.3秒ラップタイムが縮まると言っていたので、すぐさま履き替えた。
36秒884の自己ベストタイムを記録!
日曜のタイムトライアルでも36秒代を出し暫定ポール。
予選もトップでゴールし、ポールポジション。
なんとしても勝ちたかった。
整備をしていると、先輩が手伝おうかと声をかけてきた。
失礼だとは思ったが、自分でやりますと断った。
今まで先輩からは、グリップ走行を教わってきていた。
ただ私は体感で、ブレーキングで角度をつけクリッピングポイントをかすめるように立ち上がった方が加速がつくと感じていた。
先輩に、今回は自分の走りで行かせてくださいとお願いをした。
いいんじゃねえかとの返事。
もう何があっても自分の責任でレースをすると覚悟を決めた。
決勝レースのスタートを待っていると店長に、緊張すると体が硬くなるからストレッチしておけと言われる。
肩を回し、スクワットをする。確かに気が紛れた。
ドライバーズミーティングでローリングスタート時は、最終コーナーから加速するのではなくスタートライン手前のもう一本のラインから加速するようにと注意があった。
押しがけスタートし、フォーメーションラップ。私は半周まで全力で走りタイヤを温め、ペースを落とし後続車が追いつくのを待つ。
編隊を組み最終コーナーへ。立ち上がり、私はドライバーズミーティングの注意を守り加速しない。
2番手はライン手前で加速。私を抜いていく。
すぐに気づいたらしく、急減速したところで私はラインに到達。一気に加速トップを取り戻し1コーナーへ進入。
私は頭で、トップに立った時の迷いとかって本当にあるのかと自問自答していた。
すぐさま気持ちを切り替え、このレースがダメなら次のレースのための練習になるはずだと自分に言い聞かせた。
あとは夢中だった。
ポールポジションを取ったんだから、ベストタイムを出し続ければ追いつかれないと自分に言い聞かせる。
最終ラップ、ストレートエンドで振り返ると、後続車は最終コーナーをたちがったところにいた。
勝てる。確信になった。
あとは普段と同じことをするだけ。
焦りも緊張もなくなっていた。
最終コーナーの立ち上がり、チームのピットの前で自然にガッツポーズが出た。
オレは速い。
ポールトゥウィン!
最高の気分だった。
15周のレース。
2位の選手はダンロップタイヤを履いていた。
0.3秒×15周=4.5秒
ストレート一本分。
店長の計算通りだった。
先輩、オフィシャルの言うことを素直に守ったが故の勝利だった。
だが生まれて初めて取った1番。
自分にもできた。
好きなことを物にした。
運動音痴のオレがスポーツで?マジで?
ピットに戻るとオフィシャルの手伝いを一緒にしたことのある人に、やっと勝てたね。と握手を求められた。
店長にも握手を求められた。
今考えても私が1番輝いていた時だったと思います。
人生の中で1番幸せな瞬間を味わえた。
これこそがレースなんだと。
初めてカートショップに顔を出してから、5年目。やっと私もレース界の仲間になれたと思いました。
結果を出せば変わる!
身をもって感じ、今の自分の人生でも大切にしていることです。
この優勝が私の人生を変えました。
3 (フォーミュラ編)へ続く