ゆるFIREがちょうどいい生き方?
FIREのうち、FIはしたいがREはユルくていい
FIRE(Financial Independence, Early Retire)の考え方のうち、R(retire)だけはしなくてもユルく社会とつながっていたほうが人間としても豊かな生活ができそうだ。FI(金銭的な独立)は、「先立つものはお金」なのは間違いない。ただ、必要十分なお金(ここは個人の生活レベルにもよる)があれば、あくせく働いて自分を削るような生き方をしなくても良さそうだ。これまでも先人が教えてくれた通り、金銭的に十分余裕があって早期退職できる人でも、会社勤めを継続していたり、何かしらの活動を熱心にしている人々がいるのはそういうことだろう。結局、早期退職した(できた)としても、その後の人生は続くのだ。その後の人生の解像度が低いと、「海外旅行に行く」「クルージングに行く」などの遊びには限界がある(3ヶ月で飽きると実践者が言っていた)。
年金もらって悠々自適、が可能な時代は終わった
教師をしていた私の父もよく「定年退職後には、カフェでも開こうかな」などと真偽不明な夢を語っていたが、正直現実的ではなく、その夢に向かってなにか行動を起こしているわけでもなかった(単に休日にコーヒーを淹れていただけ)。そして実際定年退職してからもカフェは開いていないし、退職後数年間はたまに声がけがあったらしく非常勤講師を週に数回やっていたようだが、今は完全に自宅警備員状態だ(行動の詳細は知らない)。それはそれで本人が良ければ良い。
私達の親世代はギリギリ年金と退職金でなんとか暮らせるかもしれない。ただ、平均寿命が延びている今、人によっては「悠々自適の生活」とまではいかないかもしれない。ましてや今40代の私には、その「年金+退職金」ビジョンは危うく感じざるを得ない。
多様な価値観があって当然の時代
過去にもFIRE的な生き方をしている人は存在しただろう。だが、ごく一部の人しか達成できない領域だろうというある種の諦めだったり、FIREの考えがなくてもそれなりに将来に期待や希望が持てたからこそ、「年金+退職金プラン」で定年まで働けていたのかもしれない。
今FIREの考え方が広く受け入れられている背景には、経済的不安や価値観を変えるような大きな出来事(9.11だったり3.11やコロナパンデミックなど)が起きたこともあるだろう。私自身も、これらの社会的背景で大きく価値観が揺さぶられていると実感している一人だ。
これまでも多様な生き方があったとは思う。が、自由な生き方を選びたくても(社会的に)できなかった人もいただろう。今は、それらの個人の選択や生き方が受け入れられるような時代になっているのであれば、それは良い方向に向かっているということなのだと思う。多様な価値観はあって当然だし、それらが実現できる時代であれと願っている。
FIREはネオリベラリズムへの反発?
それ以外にも、FIREの生き方が受け入れられている背景には「ネオリベラリズムへの反発」があるように思う。
ネオリベラリズム(新自由主義)が行き着いた先は、「自己責任」や「市場原理主義」で、それらは反面で個人の経済的自由を追求する手段としてFIREを可能にした。また、そのことと共にポスト資本主義的な「社会的価値の高いもの」への関心も高まり、「ブルシットな仕事はやめてもっと余暇を楽しみ、社会的意義がある行動をしたい」という欲求に合致したのではないかと考えている。
現状、ブルシット・ジョブを実践してしまっている一個人としては、ゆるFIREには強く共感している今日このごろである。