背が低いことについて
すべてのことは考え方次第
すべてのことは良いことにも捉えられるし、その逆も然りである。私は幼い頃から背が低い。これは遺伝だと諦めたが、そうやって心から諦めるまでの道のりはかなり長かったと思う。40年生きてきて、いつからそのことにこだわらなくなったかははっきりわからない。結局、人と比較しても無駄だと気づき始めたころから、背丈のこともそれ以外のことも諦観、というか「しょうがないか」と「どうでもいいや」の中間のような気持ちになった。
過去を振り返ると
背が小さい、と自己認識したのは、記憶の中では小学校1年生からだ。昔は背の順に並ばされていたので、自分が一番前だった。それから小学校の時代は常に一番前だったし、「いつか背が伸びるかも」という期待は結局期待のまま終わった。牛乳を飲んだら背が伸びるというのは全くの迷信だったことを体現したと自負している。結局、牛乳を飲んでいようがいまいが、遺伝的要素のほうが表現型として強く出るのだと自覚した。
私の母は、それほど背が小さい方ではなかったので、似たのは父方の遺伝子だろうと思う。母に似れば良かった、とその点においては強く思ったが、当の母は、「私は背が大きくて嫌な思いばかりだった」と語っていた。時代もあるのかもしれないが、背が高くて体格が良かった母曰く、とにかく目立ってしまったのが嫌だったそうだ。それは背のせいだけではない気もしたが、当時の母は声も大きかった(らしい)ので、委員長のような役割をあてがわれることが多かったようだ。それはそれで良かったのかもしれないが、母の中では「背が高い」「でかい」ということに起因して選抜されたように感じていたのだろう。そんな母は、私が背が低くて悩んでいることを知って先述のように過去の自分のエピソードも交えつつ「小さくて可愛いからいいじゃない」というような言葉で励まして(?)くれたが、当の本人はそんな言葉では問題の根本解決にはならないことを薄々感じ、「努力ではどうにもならないことがある」ことを知った。
表現型の差異は個性
背丈が大きかったり小さかったりしただけで、今で言う「アンコンシャス・バイアス」で決めつけられて役割を担わされていたのは母も同じだったのかもしれない。私自身は常に背が小さいことで位置的に見下ろされる(と感じる)生活が常だったので、もうそれはしょうがない。妹にも身長を抜かれたときはかなりがっくり来たが、高校生あたりから、もう背は伸びないものとして生活し始めた気がする。背だけの問題ではないかも知れないが、あらゆる表現型の差異は、「個性」として受け入れるしかない。
良いところを見るように
成人となってから、「背が低い」ことで1つ良かったと思えたことがあった。それは、子どもサイズの服も(一部)着られるということだ。我が子どもたちの成長に伴い、150サイズの子供服を探していると、「これは身長が150センチの子ども用である」と気付いた。いつも実際の身長よりも少し大きめを買うのだが、であるならば私も着られるのでは…?と思い、鏡を見てサイズを見てみたら、意外といけそうだ。靴下やジャケット、ニットなどはそれほど違和感もなく子どもサイズのものも着られた。これから子どもたちが大きくなってきたら、私のほうがお下がりを着ることになるかもしれない…。
少しずつ成長している我が子だが、遺伝子的には背が高くなる因子がなさそうである。同級生の中でも大きい子と並ぶと随分差がある。ときには比較も必要だとは思いつつ、「個性」として良いところを見るようにしてあげたい。殊身長に関してのコメントには、自身の経験が大いに影響している。