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『7つの習慣』を捨ててみた:離

はじめに

 前回の記事から時間が開いたことをお詫びします。この記事を書く勇気をくれたのは前二回の記事への「スキ」でした。お礼申し上げます。さて、遁走期間に何をしていたかですが……ほとんどの時間は途方に暮れていました。本書の――科学的エビデンスの怪しさ(古い=現在では間違いとされている)であったり、いわゆる哲学的ワード(本質や普遍、真理等々)の使われ方が臆見にまみれていること、大著にありがちな局所的論理破綻――こういったもののせいです。本書に関心を持った人でも最後まで読めない人がいるのは普通のことだと実感しました。だからこそ、関連本(エッセンシャル版とか)が多いのでしょう。私は(途方に暮れつつですが)読破したのではなく何度も何度も通読しました。……これは自慢ではなくて、意気消沈した理由そのものです。
 いちおう、建設的な読解も試みていて、原語=英語版を部分的に参照しました。部分的というのは本書は訳の元になった本(底本といいます)が示されておらず、英語版でも様々な『7つの習慣』があるため、知りたいと思った単語やセンテンスの全てを追えていないということです。
 いずれにせよ、そんな私から皆さんに言えることがあります。本書を部分的に読んだり、(実質同じことですが)エッセンシャル版などでは、本書の本質エッセンスを知ることはできません。苦痛を感じつつ一度は完訳版を読破してみてください。そうすることでこの本がどうでもいいbullshitものだと体感できるでしょう。
 と、このように時間経過とともに本書への私の評価は変わっています。また、若干ですが過去の記事に手を加えていることをお知らせしておきます。


この記事の表記凡例

 以下では、上記のボールド部分を保留epochēして、可能な限り内在的に、かつ焦点を絞って読解していきます。ただ、テクスト内(=本書本文)に多くの( )や「 」が使われている関係で、この記事に限っての表記ルールを定めておきます。

  • 長文引用はnotoの引用機能を使います。ただ、前から気になっているのですが、この場合テクストの傍点などの強調表現が再現できません。notoさんなんとかしてください

  • センテンスを囲っている「 」は引用部分であり、頁数は[ ]で示します

  • 【 】は文脈を通すために私が意味を補った文章です

与件

 まずは本書の背景を(といってもテクストで示される範囲ですが)簡単にまとめます。著者は「「成功に関する文献」の調査」[9頁]をしていましたが、調査対象はアメリカ合衆国独立宣言(1776年)以来に出版されたもの、とのことでした。
 その上で、引用ですが……

この本で述べている原則は、私自身の宗教も含めて特定の宗教や信仰に固有のものは一つとしてない。これらの原則は、長く存続しているすべての主要な宗教、社会思想、倫理体系の一部に組み込まれている。自明のものであり、誰でも日常生活の中で有効性を確認できるものばかりである。

39-40頁

んまぁ、なんでそう思うんでしょうね。たかだか200年程度の時間尺の調べ物でしょ。
 ただ、長く存続したではなく長く存続していると書かれているのがポイントなんでしょう。著者は過去の……つまり、潰えた文明の「宗教、社会思想、倫理体系」を、おそらくはそれが現在に残っていないということを理由にして調査対象にしていません。それ自体は構いませんが、一方で過去を忘却しておいて、もう一方で本書のコンテンツが未来(……五〇年後、一〇〇年後)[Ⅲ頁]においても意味を失わないとコメントするのは、少なくともアンバランスだなと思います。
 で、いろんな原則が(脈絡なく)開陳されていくのですが、例えば「人間の尊厳も原則である。アメリカ独立宣言の基本的な考え方は、「我々は以下の事実を自明なものとみなす。すべての人間は創造主によって平等につくられ、生命、自由、幸福の追求など、不可侵の権利を授かっている」という一節からもわかるように、人間の尊厳という原則を土台としている。」[40-41頁]と言われてしまうと流石に違和感がありますよね。まず、なんで現存している倫理体系の基本的な考え方がアメリカ独立宣言に謳われているのかとか、背景がもろキリスト教じゃねえかとかです。時間が前後しますが、独立宣言の手前にはネイティブアメリカンの虐殺があるわけですからね……私はちょっとついていけないです。もっとも、著者は肝が座っていて「ネイティブアメリカンなどの文化圏」[623頁]でも講演をするそうですからすごいものです。
 話を戻すと――時間軸におけるアンバランスが一つあるということです。次に確認したいのは上記の「独立宣言の基本的な考え方」を著者は自然に/容易に踏みにじっているということです。

二元論は分断の思考法

 各(7つの)習慣を構造的に示したチャートとして「成長の連続体」というものが68頁に載っています。前後のテクストはそれの説明文なんですが、そのうち「相互依存」に言及されているところを引用します。

相互依存は私たちというパラダイムである。私たちはそれができる、私たちは協力しあえる、私たちがお互いの才能と能力を合わせれば、もっと素晴らしい結果を出せる、と考える。

69頁

(一般的に)「私たち」という(非常にしばしば包括よりも排除のニュアンスを伴う複数名詞)を主語に書かれた文章には、その行間に「私たち」から除外されている主体/対象subjectがあるものです。そしてこのテクストにおいてその対象は障害者――ただし、身体障害者ではなく精神障害者です。
 この点を整理するために若干の迂回が必要です。著者は自由と決定論とを対照し、選択の自由をめぐって「人間だけが授かり、人間を人間たらしめる四つの能力(自覚・想像・良心・意志/self-awareness, imagination, conscience, independent will)」[105頁]を示し、これらの能力を使うことで【自分の生き方に対して人間は】「自分で新しいプログラムを書くことができる」[106頁]といいます。他方の(プログラムを書き換えることができない)決定論については、「決定論のパラダイムは主に、ネズミ、サル、ハト、イヌなどの動物、ノイローゼ患者や精神障害者の研究を根拠にしている」[107頁]とします。ここには、自由/決定論の対照に人間/動物+精神障害者の対照が重ね合わされていること見て取れます。
 「不治の【フィジカルな】病や重度の身体障害など、この上ない困難に苦しみながらも精神的な強さを失わずにいる人に接した体験はあなたにもあるだろう」[113頁]など、身体障害者については相互(依存)関係を築ける対象であることがこの引用部分以外でも複数の事例や人物名(ヘレン・ケラーとかです)が強調される一方、極めて明瞭に精神障害者は人間というカテゴリーから排除されています。すなわち、「私たち」の中に精神障害者は含まれません
 いや、まってください。その先があります。

私たち人間は、いったん自覚を持ったなら、自分の人生を方向づける目的と原則を選択しなければならない。その努力を怠ったら、(中略)自覚を失い、生存することと子孫を残すことだけを目的に生きる下等動物と同じになってしまう。このレベルで存在している人は、生きているとは言えない。ただ「生かされている」だけである。

593頁

上記の引用文ヤバいのは最後の二文です。もはやカテゴリーからの排除(仲間外れ)ではありません。生きることからの排除であり、それは死(あるいは次代に残さない)です。この言説は明らかに(過去の記事「『ダーウィンの呪い』シリーズ」で取り上げた)優生学であり、ここをもって本書は虐殺器官であることが判明します。引用部分の節題が「上向きの螺旋」であることを踏まえれば螺旋状の虐殺器官Spiral Genocidal Organといったところでしょうか。この私見が正確かどうかは是非、591-594頁だけでも目を通してください。その螺旋を回すのは「良心」とのことです。どう考えてもガチものでしょう(怖)。

 さて、過去記事との関連で短くコメントしておくと――ビジネスの現場は優生学的思考が根深いものであることは実際そうだとして、『ダーウィンの呪い』の著者、千葉さんは、それが【生活していく中で】ストレスであることを示唆していました。こういった現実に対して、本書(および「組織コンサルタント」で「家族問題のエキスパート」である著者)が、その種のストレスを助長するもの、あるいは再生産するものであることは、とても残念です。
 残念含め了解したとしてテクストに戻れば、「人間を人間たらしめる四つの能力(自覚・想像・良心・意志)」云々といった一連のテクストは冗長な与太話にすぎない思います。ここまでお読みいただければお分かりでしょうが、この評価は昨今のD&I的風潮に反している、とかの話ではないんです。自由と決定論との二元論的言説、その内実としての人間と動物とを対照とする言説……こんなものは古代ギリシャのテクストにだけ許されるようなものです。著者は本気で書いているのですが、だからこそそんな人の想像(力)や良心など、まともに取り合うものではないでしょ。内容が内容だけに笑い話にもなりませんしね。あと、私個人は独立宣言が謳っているものになんら感傷を持ち合わせていないので構いませんが、著者は「創造主によって平等につくられ」た人間を不平等に扱っている=人の尊厳を踏みにじっているDirty deeds done dirt cheapので、よくないと思います。ま、(大統領含め)多くのアメリカ人がそうなのかもしれませんが。

邦訳副題「人格主義の回復」について

 もう一点、焦点を当てたい本書のいわば欠落があるのですが、疲れてきたので少し寄り道しましょう。
 本書の副題「人格主義の回復」は訳にあたってつけられたものですが、本書の主題の一つを上手に表現しているものだと思います。しかしながら日本語のテクストだけでは著者の狙いが正確には分からないでしょう。少なくとも私には分かりませんでした。
 参照すべき場所は明確で、まさに節題が「個人主義と人格主義」[9-15頁]となっているテクストです。詳細が知りたい人は該当箇所を読んでいただくとして、著者は、個人主義のアプローチは表層的(人間関係におけるテクニックや心構え)として低く評価し、かつて広く一般的に重視されていた人格主義を高く評価――つまり7つの習慣は人格主義的アプローチがベースと――します。まさに人格主義の回復なわけです。
 ところで、個人主義の原文はなんでしょうか。The Paersonality Ethicsです。一方で人格主義はThe Character Ethics。つまり◯◯主義は「-ism」ではありません。訳者は(ビジネス書に相応しい言葉=哲学的表現を避けようと)悩んだ末、Ethicsを◯◯主義と訳したのでしょう。まぁ、悪くはないです。民主主義だってdemocracyであって「-ism」ではないですからね。それはさておき、注意すべきは一般的にはパーソナリティという言葉は人格というニュアンスを含んで用いられるということです。
 これら2つの言葉のややこしさは、語源から見ると著者の用途がその主張と合致したものであると整理できます。つまり、キャラクターの語源(ギリシャ語)は(内的な/生まれつきの)「刻み込まれたもの」――したがって(後天的に)変えることができないものというニュアンスを持ちます。一方、パーソナリティの語源は(ラテン語の)ペルソナ=仮面であり、後天的かつ表層的――付け替え可能なものです。それゆえ著者は「基礎となる人格の良さがあって初めて、テクニックも生きてくる。」[17頁]と書くことができるのです。こういった文脈を踏まえて著者は個性(を延ばすことなど)を否定しているわけではありません。
 さて、一応整理できはしましたが、読解上の難はあります。キャラクター(キャラ)という日本語においては軽い言葉に人格という訳を当てる勇気は良しとして、実際、人格と個性は意味としても用途としても切り分けるのが難しく、原文を知ったとて、読んでいてごっちゃになります。私は流石に何度か読むうちに慣れましたが、初見殺し的な一要素ではありますね。

公的/政治的なものの不在

 この観点は前回の記事でも言及しました。雑な表現で恐縮ですが、本書の第一部(先の「個人主義と人格主義」を含む)は二部以降を読まないと意味がわからないことが書いてある部分で、第二部は私的成功です。そして第三部は公的成功です。結論から言うと、本書で公的という言葉で表されるのは、ただの人間関係(基本は「一対一」[490頁])のことで、いわゆるパブリックなことは書かれていません。この点を改めて整理する道筋として第一部のある一節から見ていきましょう。
 前回の記事ではインサイド・アウトの欠点的な内容にも触れました。ここではインサイド・アウト思考に深く関連しる影響の輪について書かれたテクストを参照します。「影響の輪に絶対に入らないものもある。たとえば天気がそうだ。」[142頁]この文章の後、「主体的な人は心身の両面において自分の天気を持っている」という意味のわからないことを言っていますが、要するに「自分にはコントロールできないことは受け入れ、直接的か間接的にコントロールできることに努力を傾ける」[142-3頁]べき、というのが著者の基本的な主張です。ここに、コントロールできるもの/できないものという二元論がでてきました。二元論的思考は結局物事を分断するのが常ですが、第三部のメインテーマとなる人間関係においては、Win-Winの関係を築くことが前者に該当する。そして当然、後者に該当する関係(性)もあり、それは「Win-Winの考え方をどうしても理解できない人も中にはいる。そういう人に出会ったら、No Deal(取引しない)」[412頁]というものです。ここもまた先の二元論と同型の仲間外れがそうなる条件および対処方法とともに明瞭に記されている――本書の要点の一つだと思います。
 以下で注目したいのは分断とはまた別の観点になります。
 英語教育の初歩で、天気の主語はitであると習いました。そしてitは三人称です。二元論がなんだかんだで結局分断に堕するのは、それが三人称を排除するものだから、と私は思っています。もちろん、背景にはイタリアンセオリーがあります……が、哲学的記述は脇において、テクストに寄り添ったときWin-Winという言葉が多いことに辟易します。とにもかくにも、私とあなた――こういった一人称と二人称だけで成り立つ関係性の狭隘さ(二人称は実質的に一人称の鏡写しであること)が、領域展開(自閉円頓裹)をくらっているように感じられます。
 この三人称の排除が私が強調したい本書の特徴の一つである政治ポリティクスの不在ということです。外在的な示唆をお許しいただきたいのですが、ここで言っている政治とはジャック・ランシエールのいう権利なきものの権利主張に代表される不和です。そして、著者はこの種の不和を様々手を尽くして締め出します。その一つはNo Deal、あるいは「自分の「権利」を守ることだけを考えて生きるようになる」[361頁]であったり、(法的な手続きは)「恐れと法律のパラダイムに縛られ、シナジーとは逆の思考と行動プロセスを生み出してしまう」[545頁]といったように……挙げればきりがないのですが、とにかく負の側面だけに焦点を当てる。
 ただし、著者の言葉遣いは厳密であることはおさえておきましょう。シナジーとは語源的に「一緒に」「働く」ことなので、第三者は畢竟、邪魔者なのです。しかし現実は自分たちの周りに(三人称で表される)他者がいます。著者には公という視点が無いので、他者との関係性をWin-Lose / Lose-Winでしか捉えることができません。もしくはLose-Loseは戦争であると短絡する[385頁]。著者は戦争(という歴史の上でも現在進行系のものとしても現実)を思慮に入れることができないでいる(「どんな場合でもLose-Loseが望ましい選択肢になりえない」[388頁])。これはでも当然で(面倒なのでクラウゼヴィッツを借りてしまいますが)戦争と政治は繋がっている(同じものだ)からです。

コロス(chorus)

 幕間の代弁の形式で私見をまとめておきます。
 まず、政治や戦争を思考できない/しないということは幼稚にすぎると思います。本書の主題の一つが人格的成熟なのですが、随分未熟な成熟なことです。著者のスタンスをざっくりいうと、コントロールできないことに時間や努力を使うのは無駄ってことなんですが、天気や他者といった三人称属性のものを全部無駄箱にぶち込みます(ちなみにコミュニティ活動=二人称属性の政治活動はよしとしています[232頁])。きわめて重要なこと――とはいえ常識的なことなのでなぜ私が代弁しないといけないのか不明ですが――公的なこと・政治的なことを論じるというのは正義について論じるということです。本書は(論じないので)そこに空白があるだけです。人格主義と訳されてしまっているからブラインドになっていますが、Ethicsを主題にして、このていたらくはあまりになさけない。
 そして、正義(論)不在の「べき論」は、千葉さんの感じたストレスと同種のものです。そして図らずも(前回の記事で触れた、本書が幸福を目的にしていることについて)千葉さんが(優生学の)最も大きな問題であるとした目的自体の不適切さは、本書にも当てはまります。本書は、人間の諸特性を良いものと悪いものに分断し、良い方向に/またより良くなるように啓蒙するのですが、そんなものは著者の思い込みです。

記事後半、275-6頁の引用文を是非とも参照ください。

有効性の自壊

 政治が不在(空白)/三人称‐他者の排除であることは、虐殺器官かどうかとは直接関係ありません。私が焦点を当てたこの特徴は、本書自体の一部分を直接毀損するものだと思います。このことは細かく論証しません。現在でも有効性を認められているであろう本書の要点――第5の習慣>共感による傾聴であったり、第6の習慣>違いを尊重する――こういったものが所詮は自分(一人称)の増幅であること。それを本書では成長と称しているにすぎないということ。いかに好意的・建設的に読み込んでも越えられない間隙があるということです。
 本書を(小さなエピソードやテクニックレベルまで)バラバラに切り刻めば有効性を救うことができます。というか、それしかできないからエッセンシャル版のような関連書籍が山積するのでしょう。しかし、そのような切り刻みは、「人格主義の回復」という著者が最も重要視しているものを(意図的にでしょうが)無視することです。もちろん、無視していいものだとは思いもしますが、でもそれをしちゃうと『7つの習慣』を読んだとは言えないと思います。

さいごに

 結局本書はなんなのか。優生学的であり二元論的な本書は、富めるもの(マイノリティ)と貧しいもの(マジョリティ)とを分断し、富めるもの通しシナジーをつくることでより豊か(幸せ)になろうとするもので……つまり手段と結果がループ(上向きの螺旋)しており、それは外(第三者)に開かれていない自閉領域です(領域内の第三者は必死)。
 けだし、完訳『7つの習慣』は読まれるべきです。途中で挫折する時期があったとしてもとにかく読破すれば、これがオワコンであること/オワコンにしなければならないことが実感できるはずです。読破してしまえばこの戯言集を(リアルに)捨てることができます。
 さて、勇気をいただきつつ記事を書き上げることができました。ただ、こういうわけですからどんなことであれ『7つの習慣』についてのお問い合わせにはお応えできません。手元にないもので……ご了承ください。

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松岡鉄久
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