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[読書ノート]25回目 3月14日の講義(第一時限)

講義集成13 1983-84年度 293頁~316頁

今回のまとめ

  • 平凡な哲学をスキャンダルにする

  • あらゆる価値の価値転換(←ニーチェ)

  • 生が真であるためには、ラディカルな別の生でなければならない

古代におけるキュニコス主義

哲学の内部にあると同時に外部にある

 キュニコス主義を理解することに困難があるとしたら、それ自体としては単純な逆説のためである。
 一方において、キュニコス主義が提示するテーゼや推奨する原則には、疑いようのない凡庸さがあった。
つまり、キュニコス主義は、当時の多くの哲学と共通の一群の特徴を持つものとして自らを提示するものだった。
 他方において、キュニコス主義は、それを取り巻く厳しい非難、その現前とその表明に対する反応として示される嘲笑、嫌悪、懸念の混合によってしるしづけられる。したがって、非常に馴染み深いものであったのと同時に、(ギリシア・ローマの哲学、思想、社会のなかで)異様なものであったということ。普通のもの、凡庸なものであったのと同時に、受け入れ難いものでもあったということである。
 【キュニコス主義の側から言い換えると】キュニコス主義は、その凡庸さのなかでとり上げられ、実践され、装われた哲学を、一つのスキャンダルとするものであった。

転倒した効果を持つ折衷主義

 折衷主義を、一つの時代のさまざまに異なる哲学において最も伝統的で最もありふれた特徴の数々を組み合わせる哲学的な思考、言説、選択の形式として定義することにしよう。折衷主義がそのような組み合わせを行うのは、一般的に言って、それらの特徴を万人にとって受け入れられるものとし、それらを知的かつ道徳的なコンセンサスを組織する原則とするためである。
 そして、「転倒した効果」というのは、キュニコス主義はそのようなとり上げ直しをけしからぬ実践とすることで、哲学的コンセンサスを創設するどころか、逆に、哲学的実践のなかに異様さや外在性を生じさせ、さらには敵意や戦いをも引き起こしたから。

真理の勇気の歴史での位置づけ

 キュニコス主義が、いったいどのようにして、誰もが語っていることを語ると同時に、それを語る事実そのものを容認し難いものとすることができるか――この逆説を特徴づけることができるなら、真理の勇気の歴史のなかにキュニコス主義を位置付け直すことを可能にしてくれるだろう。
 真理の勇気という古くからの大問題、古代哲学全体においてかくも重要であった政治的かつ哲学的なその大問題を、新たな光のもとに出現させ、それに対して新たな形態を与えてくれるものであるように私(フーコー)には思われる。
 (第一の形態)政治的大胆さ――民会あるいは君主に対して、民会や君主が考えていることとは別のことを語る勇気のことだった。そこで問題となっていたのは、一つの意見や一つの誤謬に「真なることを語ること」の勇気を対立させること。
 (第二の形態)ソクラテス的アイロニー――これは、人々に対し、自分が知っていると言っていること、自分が知っていると思っていることを、自分は実は知らないのだと語るように仕向け、それを徐々に認めさせようとするものだった。そこで問題となっていたのは、自分が知らないということを知っているという一つの知の内部に、ある種の形態の真理を滑り込ませ、それによって人間たちを自分自身の配慮へと導くこと。

キュニコス主義のスキャンダル

 キュニコス主義には、真理の勇気の第三の形態がある――人々が原則のレヴェルにおいては認めていたりあるいは認めると主張してたりすることを表明しつつ、その表明そのものを、それらの人々に非難させたり、拒絶させたり、軽蔑させたり、侮辱させたりするに至るもの。そこで問題となるのは、人々が頭のなかでは認めており価値づけているにもかかわらず自らの生そのものにおいては拒絶し軽蔑していることを、その人々に対して目に見えるかたちで提示しつつ、彼らの怒りに立ち向かうこと。

宗教に没収され、科学に無効にされる

 西欧では常に、哲学は哲学的生存と切り離しえないということ、哲学の実践は常に多少なりとも一種の生の訓練でなければならないということが認められてきた。つまり、哲学することは単なる言説の一形式ではなく、生の一つの方式でもあるのだということを、はっきりと自らの原則として定めながらも、西欧哲学はその歴史(運命)のなかで、哲学的生の問題をなおざりにし、周辺へと追いやったのだった。
 (理由の一つとして)真の生のテーマとその実践が宗教的制度のなかに吸収され、ある程度までそこに没収されたこと、これは間違いない。
 (もう一つの理由として)もし、科学的実践、科学的程度、科学的コンセンサスが、それだけで真理への接近を保証するのに十分であるとしたら「真なることを語ること」の実践に必要な台座としての真の生の問題が消え去ってしまう(無効にされる)のは当然のことだ。

哲学的生ビオス・ピロソピコスの問題

 もし、パレーシアおよび「真なることを語ること」のめぐる大いなる歴史から、キュニコス主義の問題とテーマをとり上げ直すならば――①哲学全体が、「真なることを語ること」の問題を、一つの言表を真なるものとして認めることができるための諸条件という観点から提起する傾向を次第に強めていくのに対し、②キュニコス主義の方は、「真なることを語ること」を実践するようなものとしての生の形式はいったいどのようなものでありうるのかを絶えず提起し続ける哲学的形態だといえる。

キュニコス主義が基本原則とした要素

伝統的で凡庸な要素

 ①哲学は、生への準備である(理性ロゴスによって生を組織すること)。
 ②そうした生の準備は、自己への配慮を含意している。
 ③生存のなかで生存のために本当に有用なことのみを研究しなければならない。
 ④自らの生を自分が述べている方針に合致させなければならない。

キュニコス派に特有の原則

 (前回の講義の最後に述べた原則)⑤貨幣の価値を変質させよパラカラッテイン・ト・ノミスマ
「汝のノミスマを変質せよ」、「汝のノミスマの価値を変えよ」という原則が、キュニコス派の最も根本的で最も特徴的な生の原則(キュニコス主義の経験と実践の核心)と見なされている。
 しかし、その再評価は「汝自身を知れ」という手段によってしかなされえない。この手段によって、自分について自分や他人が持つ臆見という贋金が、自己認識という真の貨幣によって置き換えられるのだ。

ノミスマとは何か

 (上述の原則についてはいくつかの解釈が見いだされる。その一つが)ノミスマが貨幣であると同時に、ノモスすなわち慣習でもある、という解釈。つまり、ノミスマを変質させるとは、慣習を変化させる、慣習を断ち切る、規則、習慣、しきたり、法を打ち破るということである。

ディオゲネスが犬と呼ばれた理由(の解釈)

 ①慎みも羞恥心も人間的敬意もない、という点において犬の生である。通常の人間なら隠すことを行う生。
 ②無関心な生。(無関心でありうるのは)何ものにもつなぎ止められず、今持っているもので満足し、すぐに満たすことのできる欲求以外の欲求を持たないということ。
 ③吠え立てる生、識別を可能にする生。それは敵と闘い、敵に対して吠え立てることのできる生、よきものを悪しきものから、真なるものを偽なるものから、主人を敵から区別する術を知る生であるということ。
 ④番犬の生。他の人々を救うために身を捧げ、主人の生を守る術を知る生であるということ。

キュニコス主義的生は、一般的な生とは別のもの

 これらの区別は、私(フーコー)が真の生を定義するために伝統的に用いられてきた特徴との【①〜④が厳密に対応しないが】非常に近い類縁関係が難なく認められる。結局のところ、キュニコス主義的生は、真の生(隠蔽されざる生、非依存的な生、まっすぐな生、主権的な生)の反響、継続、であると同時に、その極端化であり、その反転なのである。それは、通常生存をしるしづけて生存を形作っている諸形式や諸習慣を哲学が伝統的に認めている【一見凡庸な】諸原則によって置き換えることを意味している。
 ありきたりの哲学の、最も伝統的で、最も広く慣習的に認められ、最も一般的であるような諸原則をとり上げ直ししつつ、哲学者の生存そのものを、それら諸原則の適用地点、それらの表明の場所、それらの「真なることを語ること」の形式として差し出すことのみによって、キュニコス主義的生は、真の貨幣ノミスマを真の価値とともに流通させるのだ。
 キュニコス主義が哲学的生のテーマを先鋭化して問いかけるのは「生は、それが本当に真理本位の生であるためには、ラディカルかつ逆説的に別の生でなければならないのではないか」ということ。その生は、生存の伝統的な諸形式とも、哲学者たちによって習慣的に受容されてきた哲学的生存とも、そして哲学者たちの習慣やしきたりとも、すべての点において真っ向から対立している。

(フーコーの提示する)哲学的価値のアウトライン

 ギリシア哲学は、ソクラテス以来、プラトン主義とともにそしてプラトン主義によって、他界に関する問いを提起してきた。しかし、ギリシア哲学はまた、ソクラテス以来、あるいはキュニコス主義が参照していたソクラテス的モデル以来、もう一つ別の問いを提起してきた。それは、他界をめぐる問いではなく、別の生をめぐる問いである。
 結局のところ、他界と別の生という、これら二つの大きなテーマ、これら二つの大きな形式、これら二つの大きな境界のあいだで、西欧哲学は絶えず自らを展開してきたのだろうと思われる。
 『アルキビアデス』には(西欧形而上学の起源として)、自己への配慮から出発しつつ、魂および魂による魂自身の熟視を通じて、他界の原則の創設がしるしづけられた。
 他方、やはり自己への配慮から出発しながらも、『ラケス』をその出生地点としつつ、その配慮とはいかなるものであるべきか、自己に配慮すると称する生はいかなるものであるべきか、という問いがある。そこから出発して始まるのは、他界への動きではない。自己に配慮する生の形式、自分自身が真理においていかなるものでありうるかということに配慮する生の形式が、他のあらゆる生の形式との関係においていったいどのようなものでなければならないかということについての問いかけである。
 (後者の)道筋において出会うのは、プラトン主義や他界の形而上学ではない。そこで出会うのは、キュニコス主義であり、別の生というテーマである。このもう一つの道筋は、哲学的実践との関係において中心的であると同時に周縁的でもあるような問いとして哲学的生をめぐる問い、そして別の生としての真の生をめぐる問いを提起し直すことになるのだ。

今回は以上です。次回からは、「別の生」、あるいはそのスキャンダルについて具体的にとり上げられていきます。

私的コメント

 内容としては24回目と23回目の繰り返し、といっていいと思います。また、いわば西欧哲学の2つの道について(そこで参照される『アルキビアデス』と『ラケス』の対照)も21回目からのものです。つまり「話が前に進んでいない」ってことなんですが、主にキュニコス主義の多くある特徴についての整理として読んでいただければと思います。
 私としては……これまで何度か採用してきた、バッサリカットという手法も検討しました。しかし、二つの理由で選択していません。一つは、「丁寧に読解していきたい」という(と以前にもコメントした)理由です。それと関連するもう一つの理由は、残り(1時限を一回として)五回分しか講義が残されていないということです。「読書ノート」の題材が残り五回(だから名残惜しい)のだということではありません。フーコーの、パレーシアをテーマにした、講義が――死によって中断され、絶対にその先が語られることのない講義があと五回ということです。
 例えば、今回の「ノミスマ」についての解釈について……細かい諸説は端折っています。読解において必要性が低いのもそうなんですが、文献学的水準として、かなり低い程度にしか検討されていません。つまり、フーコー自身も急いでいるのです。次回以降、さらに、この種の水準の低さが複数のテーマで見られますし、また、講義の全体の構造よりも、フーコーが言うべきことの方が優先されていきます。それほど、彼は急いでいます。読書ノートとしての回数は五回よりも減るかもしれませんが、できるだけ逐次、内容を拾っていきたいと思います。それが、私にできる、丁寧な扱いの精一杯です。

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松岡鉄久
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