[読書ノート]27回目 3月21日の講義(第一時限)
講義集成13 1983-84年度 339頁~365頁
今回のまとめ
自己が放棄された王(主権)
目標は人間(人類)の生き方を変えること
別の世界は可能だ
フーコーは講義の最初に「かなりひどい風邪を引いてしまって」最後まで講義をできるかどうか分からないと述べる。これはおそらく風邪ではない。そもそも一月に大きく体調を崩しており、その後、三月に定期的に病院に通っているが、それは診断を求めるものではなく、フーコーが医師に質問するのは「私にはどれくらいの時間が残っているのか」だけであった。
主権的な生の反転
ここにあるのは、キュニコス主義的生において最も根本的で最も特徴的かつ最も逆説的な要素である。
主権的な生の一般例
主権的生もやはり(古代において)伝統的で普通のテーマであった。このテーマには一般的に言って二つの主要な特徴がある。
①古代哲学における主権的な生は、享受(所有であると同時に快楽であるもの)の次元に属するような自己との関係の創設を目指す生である。主権的であること、それはまず、自分のものであること、自分自身に帰属すること。享受と所有とのこの関係は、享受と快楽との関係でもある。真の逸楽とは、身体の逸楽つまり外部の対象に依存する逸楽のことではなく、決して失われることなく際限なく所有することができるような逸楽のこと。
主権的な生には非常に重要な別の側面がある。②主権的な生は、それが自己との関係であり自分自身の享受であるというまさにそのことによって、一人もくしは複数の他者に対する一つの関係を基礎づけたり、そうした関係に対して開かれたりもする。(具体的には)主権的な生は、他の人々(生徒や友)を援助し助ける生であり、また、生きるやり方そのものによって、人類全体に対して普遍的な射程を持つ教えを与える場合【例として賢者(セネカやエピクテトス)が書くテクストが挙げられる】、他の人々にとって有益なものとなるような生である。
賢者の生が主権的なものであり有益なものであるというテーマのなかで興味深いのは、助言、助け、激励、実例から成る他者とのこの関係が、明らかに義務に属し、免れることができないものとされているらしいということ。賢者は、他の人々にとって有用であるべしというこの義務に縛られている。
しかし、よく理解しておかねばならないのは、主権的な生の行使のなかで自分を他の人々にとって有用なものとするそうした活動が、いわば余剰ないし過剰の活動……というよりむしろ、それが自己との関係の裏面以外の何ものでもないということである。
つまり、これ【ら①と②】は、結局のところ同じことにすぎない。自己による自己の所有の獲得という同じ一つの創設的行為によって、一方では①私に対して私自身の享受が与えられ、[他方では]②苦境ないし不幸に陥っている他の人々にとって私【=創設された自己】が有用なものとなる、ということ。
そして、この(主権的な生という)一般的テーマは主にプラトンやストア派において、政治的主権としての君主制のテーマと、自己の自己に対する主権としての哲学的生のテーマとが結びつけられるかたちで、非常に重要で強力かつ非常に高い価値を付与される。自分自身を統治することができる者が他の人々の魂も統治することができる。それは、王の魂を通じて、人類全体の魂をも指導することができるというもの。
王のスキャンダル
キュニコス派が(王と哲学者という伝統的な結びつきと価値付与に対して)行うのは、非常に単純で大いに簡素化され全くもって横柄な言明――キュニコス派自身こそが王であるという言明である。(それを言うことで)キュニコス派は、地上の王、戴冠した王、玉座に就いた王の面前で、王に敵対する王として、それらの王たちによる君主制がいかに虚しく錯覚に満ちて儚いものであるかを示す。
【フーコーはその儚さについて手短に要素だけ指摘する】①(現実の)王は、君主制を営みために、軍隊が必要であり、衛兵が必要であり、支持者が必要等々、多くのものに依存している。②王は、教育もしくは世襲によって、王という責務を授けられた者のことである(起源が外部にある)。③王がその主権を行使するための条件は、彼が自分の敵を打ち負かすことができるということである(確かに相手を打ち負かすことはできるだろうが、自分自身に勝つこと=自身を統治できているわけではない)。④王は王の生を特徴づける、満足、快楽、飾りを必要とする。①〜④いずれも、失われる可能性があるものであり、(アレクサンドロス大王に代表される現実の)王は儚いもの。
自らの主権を隠す真の王
キュニコス派は真の王だが、ただしそれは、認められざる王、知られざる王であり、自分が生きるやり方によって、自分の生存の選択によって、自分が身を晒す簡素化と禁欲によって、自分が王であることを意図的に隠す王である。そして、その意味で彼は、嘲弄の王であり、惨めな王であり、簡素化や意図的な忍耐のなかに自らの主権を隠す王である。しかし、自然は、彼を王にすると同時に、他の人々に専心するという責務を彼に与えた。
①他の人々に専心することは、(賢者の場合のように、ただ単に他の人々に役立つ教えを与える、というかたちだけではなく)彼らがいる場所へと彼らを迎えに行くこと、他の人々に専心すべく自身の生を捧げることでもある。そして、他の人々に専心することができるようになるのは、自己の享受においてではなく、それよりもはるかに自己の放棄のある種の形態においてである。
②この授けられた使命は、立法者の使命や統治者の使命ではない。キュニコス派には、いわば医術的な介入主義がある。(セネカのような賢人は助言や書物によって人を助けるが)キュニコス派の介入主義は、身体的介入、社会的介入である。
③キュニコス主義のそうした使命は、闘いの形態をとる。キュニコス派は恩恵を与える者であるとはいえ、本質的に、根本的に、恒常的に攻撃的な者であり、彼らが有用なのは、彼が闘うからであり、噛みつくからである。
惨めな格闘家
キュニコス派の闘いは、悪徳に対する闘いだが、その悪徳とはただ単に個人の悪徳のことではなく、人類全体に害を及ぼす悪徳、人間たちの悪徳である。つまり、人間たちのうちに見いだされるかくも多くの習慣、振る舞い方、法、政治組織、社会のしきたりにおいてかたちをなしたり、それら[を]拠り所としたり、それらの根底にあったりする悪徳のこと。
闘う目標は、人間を変えること、つまり、人間をその道徳的態度において変えるのみならず、それと同時にそしてまさしくその結果として、人間をその習慣、そのしきたり、その生き方において変えることである。
キュニコス主義の最後の反転を特徴づけているのは、主権的な生、幸福で有益な生を、惨めな王制の生、自己自身に対する試練の生、他の人々との闘いの生へと誇大化することである。
世界のなかで世界に対抗する戦闘性
キュニコス派の戦闘性の特徴は、万人に差し向けられる開かれた場における戦闘性であり、(個人に対してではなく)人類一般に共有されている悪徳や欠点や弱さや臆見に依拠するものに立ち向かうものであり、世界を変えようとする戦闘性である。
十九世紀の革命的な戦闘的態度には、見かけの惨めさの下に、いずれにしても簡素化と禁欲の実践の下に、ある種の王制ないし君主制が隠されているということ、世界を変えるための攻撃的な闘い、永続的な闘い、絶え間ない闘いとしての君主制があったといえる。
キュニコス主義は、真の生をめぐる古代哲学の伝統的テーマの数々をとり上げ直しながら、それを移し替え、それを反転させて、別の生の必要性の主張および肯定へと導いた。そして、惨めな王というイメージおよび形象を通じて、別の生というその考えを、その他性によって世界の変化をもたらすべき生というテーマへと、再度移し替える。すなわち、別の世界のための別の生、というわけだ。
今回は以上です。基本的には26回目と合わせて読んでいただきたいと思います。
私的コメント
さて前回のコメントで、パレーシアや勇気はどこにいった? ということについて触れました。
今(講義のなかで)起こっているのは、ある種の図と地の反転です。フーコーの研究が辿った、生権力、生政治、統治性、主体、そしてパレーシアと自己と他者の統治という、経緯のなかで何度か起こった図と地の反転(テーマにしていたことが背景に退き、そのテーマの背景にあったものがテーマになる)であり、その最後のものがここに見られるのだということです。
その背景から前景に出てきたものとは(残り3回の講義を保留しておくならば)、別の世界のための別の生、というものだと、言えると思います。今回のポイント「別の世界は可能だ」は、したがって、元ネタの世界社会フォーラムからは無関係に、あくまでキュニコスの文脈の意味で捉えてください。
それは、「私たちはもっと別の生き方を選ぶことができる」可能性であったり、「よい生のために○○をすればいい」という可能であることを前提とした助言であったりではなく、キュニコスは、彼ら自身が、そもそも別の生を現に生きたということです。そして、そのような(嘲弄や屈従を伴う)生き方は、端的に「不可能」です。つまり、不可能なことを実際にやっている奴ら(しかも醜く、汚い奴ら)が、介入してくるというのは、不愉快であり、(秩序から)追い出すべき対象です。キュニコスの戦いとはそういう戦いでした。
彼らがスキャンダルとして暴くのは、世間一般的な規範がいかにご都合主義であるか、ですが、ここで「一般的」と言われているのはもちろん、一部の人間――ポリスの市民や君主――いずれにせよ統治する側の人間です。そして、彼らに助言したり、(ストア派に至ってはさらに上位として)側にいる、哲学者です。そのような哲学者の哲学、理論、推奨される習慣、つまりは生き方のなかに、ご都合主義がある。これがスキャンダルなのです。ところが、もしそうだとすると、伝統的で一般的な古代の哲学のなかでとても大切なものとされたパレーシアはどうなるでしょうか。一つは、パレーシアも、実際にはご都合主義を内包していた、です。もう一つは、パレーシアはキュニコスの方にこそあるです。この二つのうちどちらかのか、というのは難しいものの大事なポイントだと思います。ようするに、キュニコスが哲学をご破産にしたとして、パレーシアもご破産になっているのかどうか、ということです。皆さんはどちらだと思われますか。
この「問い」は一旦置いておくとして、26回目含め、現代の目線で振り返るなら、キュニコスが反転を伴って示したこと……①隠蔽されない=オープンであること、②依存しないこと=シンプルであること、③まっすぐであること――これは少し解釈が必要です。法や規則への合致に自然への合致を対置しつつ、動物性を肯定することとは、ちょっと乱暴な飛躍があることを自覚した上で言うと、ようするに、人為につくられた不平等を無視して、平等を示すことです。そして④主権の反転は、①〜③をすべて含めて、主権的な存在という擬制を放棄すること、「主体」「主体性」といった幸福や有益であるために求められるものを放棄したところで、王を名乗ることです。
これらのうち、①〜③(26回目の内容)は、現代の私たちが大切だと知っていつつ実現できていないこと(オープン、シンプル、平等)であり、狭くは、ビジネスシーンで強みとしてすら価値付けられているものであることに、ご注目ください。私たちの世界は、大昔にキュニコスが示したものを、長い時間をかけて、しかし着実に獲得してきたし、今後もさらに獲得されるでしょう(つまり人類の悪徳は克服されていっているというわけです)。
ただし、それは、ご都合主義の伝統的(現代の)哲学によってではありません。仮に哲学者がリードしたように見える場面があったとしても、それは錯覚です。そのような獲得――別の生、別の世界の獲得をリードすることができるのは④自らの主権を隠す者だけです。今回の内容には、そのような(「最も根本的で最も特徴的かつ最も逆説的」)あり方が示されているのだ、というように読まれる必要があるでしょう。