読解『アイデンティティと共生の哲学』2
前回の続きです。そして今回で終わりにできませんでした。次回は、本書のキータームが盛りだくさんの9章を主に読解して、それで終わりにしたいと思います。
不本意ながら起承転結になったわけです。即ち、起:導入、承:読解1、転:読解2、結:読解3。
第6章
生活の具体的な場で共生(反差別)を実現するための生き方の流儀が検討される。話のスケールが「生活」あるいは「日常生活世界」に移る。それと同時に「生き方の流儀」(212)がテーマとなるが、これは〈生の形式〉の模索と考えられるだろう。
こういった主題の変化よりも重要なことは、6章において著者のエクリチュールが大きく揺らぎはじめ、ときに戸惑い(よい意味で)屈折していくことだ。このことは上述のテーマの移動によるものではない。揺るがせたもの、それは「差別」(あるいは差異)に関する諸問題である。
差別の論理と構造
著者は江原由美子の「差別の論理」を参照にしながら差別の実際を分析していく。「差別は被差別者の特性や固有性とはほとんど無関係」「その(差別の)標識は恣意的にえらばれる。差異をあげてその価値づけを理由にするのは、「差別」の仕組みそのものをみえなくさせるための差別者側のワナである。」(218) 差異が差別の理由になっているが、それはロジック上のこと(ワナ)で、実際は差別による排除自体が目的だ、ということが強調される。
そして、差別〈する側〉と〈される側〉との違いは何かというと、〈される側〉の「有徴性」(219)(「 」文中のボールド強調は原文では傍点:以下同様)、つまりしるしづけられていること、と書かれる。このことの具体的事例として、アイヌという集団的アイデンティティと、「関東人」や「北海道人」とは同位のレベルの呼称ではないことに当てはめ、「要するに多数者の自己定義は「差異あるもの(アイヌ)を除いたあとの、それ以外のわれわれみんな」(220)というかたちをとっている」と分析される。問題は、差別〈する側〉の自己認識にあるわけだ。つまり、差別の構造は「差別する側に普遍的な「私=私」という自己同一性を結果する権力構造」(220)であると書かれる。ではどうすれば差別を回避できるかについて、①「関係の非対称性を把握して対称性の関係をひらくことが反差別の原理である、と考えることにしよう」とテクストは進んでいく。
私的コメント
この点について、一旦読解を離れることをお許しください。私は最近の「自分らしさ」に関する記事で、「自分らしさ」という言葉が、自分が自分らしさを感じるという構造を持っているのではないかと、暫定的に結論しました。それは、自分が自分に嘘をついていない(真である)という文脈のものでしたが、それをふまえたとしても(むしろふまえてこそ)端的に「自分=自分」の構造なんでしょうか。「権力」という言葉はモノモノしいですが、英語にすればパワーです。そして自分らしさは「強さ」とか「力」に結び付けられるのですから、「自分らしさ」の構造は「私=私」という自己同一性を結果する権力構造であると言いきれそうです。そして、それは差別の構造――実際に差別をするかどうかではなく、構造がそうなっているということです。
労働可能性/不可能性
次に、金井淑子による障害者への差別の問題が検討される。著者は金井が「「働く人間としての平等」観が一面で持つ差別性への自覚をうながし、「労働不可能性を前提とする」平等観への深化の必要を論じている」(223)と強調しつつ、金井が身体の差別意識と結びつけることについて「その結合の論理はまだ未整理で私には十分納得がいかない。」としている(ここでの障害者とは身体障害者ということ)。著者は、ウェーバーを引き合いに出して了解しようとするが、私は少なくともテクスト上は、それが成功しているように思えない。
そして、当然ながら精神障害者も検討されることになる。菅孝行の「反差別論」を検討しつつ、菅の「個体としての人間の、相互の差異こそ、自然に即したあり方なのであり、そこに本質的な上下、軽重はありえない」という主張に対して著者は「「権利」とか「平等」という概念は人間の社会的関係における価値評価なしには成り立たない概念である」(227)と批判する。著者のテーマは共生(社会)なので(菅の言う反差別/自由について)「そういう自由は、共生の社会をどう形成するかという動機づけを欠く」(228)のである。このように断言しつつ、節末のセンテンスは「既成のカテゴリー支配をこわすという意義があるのは認めるにしても……。」(228-9)となっている。
私が「……」をよく使うので紛らわしいが、テクストにおいてこのような表記はこれまで無かった。ここには、明確な形で義務表現・べき構文からの隔たりが現れていると言えるだろう。
テクストの社会の形成の動機づけとは一体なにかここでは不明であるが、このモチベーションの正体は、次回でおおよそ確定的に明らかになる。
一方で、読解としては、(著者が引用、言及する範囲という)菅の限られたテクストからでも一点指摘することができるだろう。菅の主張は確かに動機づけを欠いているかもしれないが、それは「社会をどう形成するか」ではなく「社会関係における価値評価」の動機づけについてではないか。そのことは、共生にとって肯定的契機になりうると、私は考える。
暫定結論・モデルの並置
著者の暫定的な結論は、①対称性の関係を設定することに続き、(障害者の問題を受けて)②対称性の関係の枠内に(感情と価値判断を)「コントロールする「共生の義務と権利」をあげたい」である。べき構文は鳴りを潜め、提案・望みの言葉づかいになっている。さらに、直後に「しかし、こういうだけで菅孝行の論をはなれるわけにはいかない。」(231)と書かれるのだ。いわば〈義務の望み〉すらかなわず、著者は人間を離れ「「動物の権利」とか「生きとし生けるものの平等」という思想」(231)に進む。
対象は遂に自然存在となり、「そこには出来事と構造が統一されている無限性と神秘性があり、他のなにかのためのたんなる手段にすぎないものとなることを強制されていないそれ自体性がある。」(233)と書き、(自然の)事物や出来事に対して偶然性や可能性をふくみながら構造化する思考を――レヴィ=ストロースの「野生の思考」で理解しようとする。これを(反差別の)普遍性モデルとし、他方で問題含みゆえに刷新されるべき与件として市民社会モデル=規範モデルを並置する。なぜなら「人間の自然的平等論は、たしかに普遍性を確保している。だが、規範を伴わない普遍性は、社会形成の凝集力を欠く」(236)からだ。
この部分の論理構造はあくまで形式的なもので、私は、内容的にロジックが成立していないと考える。あるいは、「反差別」と「社会の形成」とを論理的に整合させることの困難さが現象しているとも言える。
しかし、それがテクストの欠点ではない。この部分にこそ、(図式的簡略化をすれば)「アイデンティティ」に対しての哲学的セーフティロックが関係しており、それを「社会の形成」という契機にどれだけ織り込むことができるのかが試みられている部分と思われるからだ。
書き手の場所移動
著者は構成的−立憲的なテクストから離れるべくして離れていく。記述上、著者自身が意図しなかった差別発言で人を傷つけたという契機が語られることなどを経て、著者は自身のポジションを差別される/た側に移す。具体的には、死刑囚の青年の手稿を読むのだが、そこには、(傷づいたアイデンティティを持つ死刑囚の)「本当の自分を知られることへの恐怖」「(それを)隠さねばならないこと」「何の解決をも望みえない無力で曖昧な自分」といった死刑囚の自己への省察があり、彼自身が気づいた人間の豊かさについて「草や木が……人の目に見えない部分に年輪を刻んだり、根を張っているように、人も、苦しいこと悲しいこと様々ある人生の中で、それに耐え、闘い、どんなことでも容易に逃げないで真っ向からぶつかり、そこから人生をみつめ、人間として成長していくこと」と書いたものに、著者自身も「おなじような過ちを犯すことのありうる者」(253)として共感する。
この「人間の実存的な生の倫理の問題は、第9章であらためて取り上げ」られるので、読解するものはそちらに飛ぶことを許されるのだが、テクストがそれをさせない。なぜなら次の7章では、この死刑囚の戸籍上の姉になった日方ヒロコが参照されるからである。
第7章
死刑囚の姉
日方ヒロコが死刑囚の戸籍上の姉になることについては、「正気をなくす程に周囲の者達から侮辱を受けながら」のことであった。彼女は「アイデンティティの喪失」ということを「生きる瀬がない」と訳す(立つ瀬がないという慣用句の転用)。そして、日方とともに著者は、生きる瀬をつくるのは自助努力で到達するものと錯覚されてきたが、「生きる瀬をつくる」とは「それぞれの立場の違いを尊重しつつ、生きる瀬を分け合うことではないのか。」(264)と考える。
小読解
「アイデンティティの喪失=生きる瀬がない」であるならば、生きる瀬=アイデンティティということになりますね。そうすると、「生きる瀬を分け合うこと」は「アイデンティティをシェアすること」という意味になります。この言葉は意味が通らない、と言うほど私はバカではありません。アイデンティティはシェアできるものではないです。それを分け合うということは、アイデンティティがアイデンティティであることを放棄するということです。それを放棄することで「生きる瀬をつくる」ことができるということでしょう。
つまり、「私=私」は差別の構造でもあり、共に生きることを不可能にするものといえます。まぁ、並べて書けば当たり前のことに見えますけど。
痛みと闇
「日方ヒロコの思想のいとなみから、私は思い立ってふたたび田中美津の前掲書(『いのちの女たちへ』)を読みかえした。」(265) 『いのちの女たちへ』でくりかえしあらわれる主題は、「痛み」と「闇」であり、自分ではどうにもできない自分がかかえる矛盾ゆえの「とり乱し」である。著者が引用する部分を私も引用する。
著者は「こうした思想の営みとくらべて、男である私はどこに立ち拠を置くことができるか」(267)と問うことで、実質的に引用文の解釈をしないまま、テクストのテーマを「家父長制」の問題に移していく。そして7章を終えるまでの間で、(私から見て)特記すべきテクストは次の一文だけだった。「公的領域と私的領域を分離する仕組みと考え方が、現代の家父長制を特徴づけているものなのである」(282)
しかし、先の引用文から家父長制とは相当な距離がある。私は引用文にしばらく留まることにしよう。なぜなら、後のテクスト(9章)でキータームとして提示される「傷つき易さ」の読解に関わるからだ。
小読解
田中のテクストを平凡に――例えば後ろから読むと、支配−被支配のない世界とは、文字通りのアナーキズムの理想で、その原点にある「怒り」は具体的には蜂起のことと解釈することもできます。
今度は、もう少し内在的に読んでみましょう。際立っているのは、「己れは己れ」の意味づけです。〈痛み〉は〈生命の輝き〉ということなんですが……なにからなにに「甦る」のでしょうか。(フーコー風の言葉を使うことを許していただくとして)「汚辱に塗れた生」からでしょう。しかしそれは半分です。「なにに甦る」のか。
輝きをヒントにするなら、光の道の方にあるものであり、「支配/被支配のない世界の生」といったところでしょうか……論理的には合っていそうです。ただし、「支配/被支配のない世界」を「汚辱」のない世界と考えると間違いだと思います。つまり、「汚辱に塗れた生」と「支配/被支配のない世界の生」は闇と光の関係ではありません。闇とは痛みを通じて視えるものです。光が視えるのではありません。テクストに忠実に読むなら「視えた闇は光への道の入り口」と書いてあります。この短い文には、光までのかなりの距離が示唆されています。まず闇は入り口に過ぎず、光との間には「光への道」があるということです。
いずれにせよ、ある種の生命力に溢れたテクストと言えるでしょう。一応、指摘しておきますが、「私=私」と「己れは己れ」はとてもよく似ていますが、全く違うものです。違うといえば、「支配/被支配のない世界」は直接、共生社会を意味していないと思います。この点に著者はどの程度自覚的だったのか……少なくとも(家父長制という全く別の)テーマに移ることで、そのことははっきりしません。とはいえ、「支配/被支配のない世界」を具体的に存在するものと考えるなら「無縁」がまさにそれですし、あるいは理念的、概念的なものと考えるなら、私ならカオスモーズがそうであると考えます。
テクストを別物にしてみる
先の引用テクストは女性の被差別のポジションから書かれたものです。それをこの記事の別のポジション――障害者から書いた場合どうなるか、試してみたいと思います。ポイントは、単純に障害者=被差別の対象ではないことです。障害者でも(女性でも)差別/被差別、どちらもありうるのです。(以下は私の創作ですが、形式上「引用機能」を使います)
あんまり出来は良くないですが、こんなところでしょう。便宜上、これを「呪いについて」と呼称します。三人称やカオスモーズは、このテクストにおいてもありうる……はずなんですが、解釈はおまかせします。
できれば乙骨風で。
#失礼だな 純愛だよ