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[読書ノート]20.5回目:哲学的言説の独自性

講義集成13 1983-84年度 82頁~83頁

 20回目は、他と比べて短かったと思います。それは、文脈に組み込めなかった部分を飛ばしているからです。その部分とは、「西欧哲学の根本的特徴である3つの極」と「「真なることを語ること」の4つの方式」の間にあり、内容としては、哲学的言説が、科学的言説や政治的言説や道徳的言説とどのように違っているか、というものです。

 その内容を、20.5回目として抜き出すわけですが、これは、20回目のハイライトである「哲学的態度の4つの定義」(特に4番目)と部分的には一致しつつ、一方で、フーコー自身が「完璧に定義」と表現したものから……さらには、これまでの講義で言及された哲学的言説のいくつかの特徴からも、いわば溢れ出るような過剰が見られます。つまり、20回目の「定義」が図式化された結論で、以下のものがその詳細という関係ではないように、私には思われます。

 少し重複しますが、文脈としては――西欧哲学の特徴として①真理の極、②政治の極、③道徳の極があり、これらは「還元不可能」と言われます。還元できないとは、どれかに吸収、統合されるようなものじゃないということです。①は科学的言説に、②は政治的言説、③は道徳的言説にそれぞれ対応しますが、例えば科学的に明らかになった真理/事実によって、政治的な正しさ(あるいは道徳的正しさ)が論理的に導き出せる……といったそういう還元主義的な考え方は実際にありますが、少なくともフーコーは還元不可能と言います。しかしそれらは完全に独立しているという意味ではありません。「互いに他と結びついている」というのは、そういうことです。
 正確には、①が独立した言説として科学的言説があり、同じように②政治的言説、③道徳的言説がある。そして、哲学的言説は、そのどれとも違うのですが、違い方として「それら三つの問題の一つひとつに関して、哲学的言説が同時に他の二つの問題を提起するから」と言われます。つまり、①真理について語るとき、①が②や③とどのように関わるかを哲学は語る……基本的な構造はこんな感じです。では、以下、通常の読書ノートのように引用ベースの文章で詳しく見てみましょう(数字やボールド、改行で読解を補うのはいつもの通りですが、今回のみほとんど省略を行わず、また実際の文章に近づけるため「ですます調」を残します)。

 実際、ギリシア以来、我々の時代に至るまで、哲学的言説が、①科学的言説とも、②政治的ないし制度的言説とも、③純然たる道徳的言説とも異なるものであるとすれば――つまり、①ただ単に「真なることを語ること」の諸条件とは何かを定めてそれを作用させる[ことだけを行う]ものでもなく、②可能な限り最善の制度的体系とは何かを定めるだけのものでもなく、③行いの原則とノルム【規則、基準】とを処方するだけのものでもないとすれば、それはまさしく、それら三つの問題の一つひとつに関して、哲学的言説が同時に他の二つの問題を提起するからです。

 ①科学的言説とは、その諸規則とその諸目標を、「真なることを語ること」とは何か、その諸形式はどのようなものか、その諸規則はどのようなものか、その諸条件と諸構造はどのようなものか、という問いに応じて定めることのできるような言説のことです。

 ②政治的言説が政治的言説でしかないのは、それが、ポリテイアに関する問題、統治の諸形態と諸構造に関する問題を提起することで満足するものであるからです。

 ③道徳的言説が道徳的言説でしかないのは、それが、行いの諸原則およびその諸々のノルムを処方することのみを行うものであるからです。

 哲学的言説が科学的言説と別物であるのは、哲学的言説が、真理の問題を提起するときには必ず、それと同時に、「真なることを語ること」の諸条件を、個人に対してその真理への通路を開く倫理的差異化[との関連において]、あるいは「真なることを語ること」を発する権利、自由、義務がその内部において与えられる政治的諸構造[との関連において]考えるからです。

 哲学的言説が哲学的言説であり単なる政治的言説でないのは、哲学的言説がポリテイアに関する問題(政治的制度、権力の諸関係の配分と組織化に関する問題)を提起するとき、それと同時に、真理に関する問題、つまり、権力の諸関係とその組織化を定義することが可能になる出発点としての真なる言説に関する問題を提起するからであり、また、エートスに関する問題、つまり、政治的諸構造によって場を与えられることが可能かつ必要であるような倫理的差異化に関する問題を提起するからです。

 哲学的言説が単なる道徳的言説でないのは、哲学的言説が、ただ単に、一つのエートスの形成をもたらすもの、一つの道徳の教育法ないし一つの規範の伝達手段となるものではないからです。つまり、哲学的言説がエートスに関する問題を提起するときには必ず、それと同時に、真理について、そのエートスを形成することのできる真理への接近形態について考えるのであり、また、そのエートスがその内部において自らの特異性と自らの差異を肯定することができるような政治的諸構造[について]考えるのだということです。

 哲学的言説は、ギリシア以来現在に至るまで、まさしくそうしたゲームの可能性のなかで、というよりもむしろその必要性のなかで存在してきました。①アレーテイアの問題が提起されるときには必ず、それと同時に、まさしくその真理との関係で、②ポリテイアと③エートスの問題が必ず提出されるということ。ポリテイアについても同様であり、エートスについても同様です。

 いかがでしょうか。まぁその、言葉遣いの難しさはあるかもしれませんが(さすがにそれには慣れているので)、内容が理解できないということは、私はありません。ところが、この内容を20回目の後半と連結、整理することができなかったということです。もっというと、ここではもはやパレーシアが問題になっていないとも思います。いずれにせよ、このような形で分けて提示しました。
 おさえておかないといけないのは、哲学(的言説)は、常に、あるいは必ず、3つの極全てに関わるということです。また、哲学的言説が何と違うのか(それまでは弁論術との対比が多かった)について、具体的に(極という形で)科学的言説、政治的言説、道徳的言説が明示されたということですね。特に、講義の中ではエートスが強調されているので、もしそれだけであるならば、道徳言説であり、哲学的言説ではない、ということにもなります。だからこそ、今回は特別に内容を補った、ということです。
 もし、というか、多くの記事でそうでしょうが、私の理解不足や間違いと思われるもの(つまりエビデンスがなくても構わないので)については、気軽にご指摘ください。

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