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ガダマー:『科学の時代における理性』

ガダマーは洗練されたヘーゲルです。ヘーゲルを取り上げたとき炭治郎に例えましたが、ガダマーは冨岡義勇と言えるかもしれません。

はじめに

 ハイデガーを師匠に持ち、現象学や実存哲学には無い独自の型である解釈学を完成させました。完成というのは現代でも通用する哲学の一つの完成形という意味です。
 ヘーゲルは、彼以前の哲学の全部盛りで、哲学を終わらせました。その後の反哲学(および、番外編で取り上げた思想のインパクト)を含めてガダマー以前の哲学全部盛りをやってのけました。この偉業は、本としては主著である『真理と方法』で世に出ました。理性・真理といった哲学らしい言葉はガダマーにおいて、ついに普遍性から離れたところに再定義されます。
 紹介に入る前にもう一点。日本ではガダマーはそんなに有名ではないのではないでしょうか。しかし、アメリカでは(今後、紹介することになるプラグマティズムとの相性の良さもあって)よく研究されているようです。とはいえ、『真理と方法』(Ⅰ〜Ⅲ)が日本語で読める皆さんは幸運ですよ。私が学生の頃はまだ翻訳されていないかったんです。

時代背景

 世界情勢としては少年時代に第一次世界大戦。アラフォーで二次大戦。これにつきます。時代には翻弄されましたが、ガダマー哲学の理解についてはあまり影響がないといってもよいです。強いていうなら、ユダヤ系でもなく反ナチだったことが大学教授になるときにプラスに働いたぐらいです。
 学問の情勢というか……ハイデガーの弟子ですね。同時代の哲学では新カント派が幅を利かせていました。

どんな人物・なにをした

長寿

 100歳以上生きました。しかも最期までほぼ現役でした。これは素直にすごいですよね。
 まぁでも、いいとこのお坊ちゃんといえばお坊ちゃんです。お父さん大学教授。お父さんには自然科学を仕込まれました(これ重要)。ただ、ギムナジウム(中高校)では幅広く人文学を勉強。

ハイデガーの弟子~学長

 プラトン関係の論文で博士号をとり、『存在と時間』出版前(つまり有名になる前)のハイデガーと出会い弟子なります。その後、ハイデガーから大学教授資格を与えられて、しばらくは非常勤講師生活。二次大戦の年に正教授。戦後に学部長、そして大学学長までなります。

遅咲きの哲学者

 ただ、ドイツが東と西で分かれていた時代。西側に移動して、60歳のときに主著『真理と方法』を出します。大器晩成型ですね。その点でも、ヘーゲルと似ているかも。
 色んな賞ももらっていて、まさにヘーゲル賞とかね。あと、ドイツ哲学会会長もしているので、まさに哲学の大御所といったところです。

読むならこれ!『科学の時代における理性』

 ドイツでも一冊の本として出版されていますが、中身は1970年代前半に書かれた6つの論文の集まりの比較的ページ数の少ない本です。解釈学のテクニカルタームは、ちらっとしか出てきませんが、3・4・5章ではガダマーが解釈学で目指したものが、ある程度哲学の知識がある人なら簡単に読める文体で書かれています。

現代的評価:★★★★

 哲学を勉強する人にとって、ガダマーの解釈学を知っておくことは必須だと、私は断言します。もっと広く、学者なら素養として持っているべきとまで言えるかもしれません。その辺りを少し丁寧に説明します。

哲学の流れの中での位置づけ

 ガダマー自身が語る哲学の大きな流れをおさえておきましょう。アリストテレスが哲学を第一哲学とする。第一哲学というのはもちろん形而上学のことですが、形而上学というのは後からつけられた編集上の名称で、アリストテレス自身は第一哲学と表現していました。第一というのは、諸科学の最初という意味です。
 哲学としてはデカルトで近代哲学(近代科学)がはじまりますが、実質的にはガリレオの力学(物理学)から、いわゆる自然科学が着々と進歩し、実際に社会に大きな成果を残していきます。カント(ガダマーが強調するのはフィヒテ)が理性の限界を示しますが、実質的にこれは哲学の限界と同じこと。ヘーゲルはそれを救い出し、第一哲学を復権。ただ、自然科学はメキメキ成長しているのに人文科学はぱっとしない。だから自然科学の方法こそが真理の道だ、ということを自然科学自体が言うのではなくて、哲学が(自然科学のしもべのように)それを証明するという役割に落ち着いたのが新カント派(および現象学)。皮肉なことにこの役割は「自然科学の後で」という意味ではたしかに形而上学(メタ-フィジックス)ですが、哲学とは本来第一哲学でしょ、真理に至る方法をしめす理論哲学でありかつ実際に明らかにしていく実践哲学としての解釈学こそ、それである。といったところです。

解釈学のポイント

 上のように位置づける際、西洋の伝統であった理性は、ニーチェ、フロイト、マルクス主義哲学によって――精神分析イデオロギー批判によって――頼りにならないどころか、逆に偏見のもとであることが暴かれていることを、ガダマーは前提にします。
 理性というか、その人の考え方とか見方(認識)なんて、意識的にも無意識的にも、さらには言語的にも文化(伝統や慣習)的にも限定付けられているわけです。その限界を「地平」(線)に例えます。この例えは秀逸ですが、ニーチェやフッサールも使った用語です。
 そして、地平は言語や文化、もっといえば個人個人違うわけですからその地平にとどまっていては理解し合うことはできません。ところが実際には理解し合っている。そのとき、どういう事が起こっているかが重要です。
 ここは身近なたとえ話でアプローチしてみましょう。私たちにはとてもよい題材があります。哲学の本。読んでも意味が分かりません。それで、テクニカルタームは辞典を見てみたり、哲学の流れの位置づけからヒントを得たりして、少しずつ分かるようになってきます。その時、自分の考え方や概念の理解の仕方も少しずつ変わっていきます。変わることで理解できる範囲が増え、また理解できないことが出てくるわけですが、いろんなやり方で範囲を増やしていく。変わっていくのは、理解する方だけではないです。理解が深まると、わけの分からなかった哲学の本も意味のある文章に変わっていくんです。この循環を、解釈学的循環と言います。
 この例は、哲学の本というテキストが相手でしたが、人とのコミュニケーションでも同じことです。お互いに(違う)地平を持っているけれど、解釈学的循環をへて、理解することができる。これを地平融合といいます。

現象学との違い

 現象学は、その名に反して本質主義だとフッサールの紹介で述べました。実際、現象学における理解とは本質直観です。さて、解釈学をその対比で捉えるとどうでしょうか。別の記事で取り上げましたが実はとってもシンプルです。

 解釈学は経験を大事にします。言い換えると、現象学は。解釈学はです。解釈学的循環は一度ではなく複数……もっというと無限です。ガダマーも真理には漸近的にか接近できないというわけですが、その際大事なのは、理解のためのアプローチの幅や数、つまり量なわけです。
 ここでは、真理は理解の程度によって変化していくものですし、普遍的な真理なんてものは存在しないということも大事ですね。

学問論としての解釈学

 学問論というのは、学問(=科学)に対する理論という意味で、まさに第一哲学なんですが、今で言う科学哲学に近いです。というか、ガダマーとクーンは晩年、お互いにそれを認識します。それはまた別の機会でとりあげましょう。
 さて、ガダマーの学問論の概要ですが、大枠はディルタイの分類を前提にします。つまり、「自然科学」と「精神科学」を知の2つの半球と捉えます。知としては同じなんですが、方法や基礎づけがぜんぜん違うという意味では分けて考えるということです。この分類や精神科学という名前の経緯は説明すると長くなるので、とりあえず、理系と文系と思ってもらって大丈夫です。
 そして、自然科学の方は厳密な学が成立する。精神科学(今の学問分野でいうと、歴史学、政治学、社会学、文学などです)の方は、解釈学的循環という方法でしか真理に近づけない。
 自然科学が成果を出しているからといって、その方法で精神科学の方も研究しようとすること(コントの実証主義やミルの経験論)は、この点を見誤っているし、彼らは自分たちの理性がどれほど限定付けられている(偏見の塊)かを認識していない。ということになります。

ガダマーの強み

  • 理解する側の主体(の理性)の限界を前提にしている

  • 理解のプロセスで主体が変わっていくことを捉えている

  • 真理を普遍的なものでないものと捉えている

  • なおかつ相対主義(正しい答えなんかない)に陥っていない

ガダマーの弱み

  • 理解が中心である都合上、言語が異常に重要視される

  • 派生して、言語化できないもの、語られないものは対象にできない

  • 地平融合は、共通性からしか生まれないとしている

  • つまり、全く違う文化・伝統の相互理解については苦手

さいごに

 上に書いた弱みがあるから★5ではない、というわけではありません。弱みとは、一人の人間が持つ限界であり、どの哲学者にもあるものです。解釈学が万能ではないという意味で示しておきました。
 ★5でない理由は、今では、少なくとも学問に足を突っ込んだ人なら、解釈学についての知識は常識の範囲だからです。逆に言えば、もし哲学の研究者で、ガダマー以前の意味で真理がどうとか言っているなら、ちょっと時代に取り残されている感じがします。

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