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映画批評「生きものの記録」

 言わずと知れた黒澤明監督の問題作だが、私はこの映画を批評するにあたっては、いささかの自信もない。というのは、この映画の再生時間の約半分をストーリーとまったく関係のない別の事柄に心をとらわれていたからだ。まずこれを打ち明けたい。そこで妻の力を大いに借りることになった。一緒に観ていた妻の意見を大いに参考にした。
 言い訳だとお叱りを受けそうだが、さらにその理由をこじつけてみた。私が別の事柄に心をとらわれていた理由だ。
 この映画に登場する人物の多くは傍観者だ。反核に対する傍観者だった。ただし、この映画の主人公は本当の意味での反核ではない。とても大きなエゴイズムに包まれた偽の反核思想家に過ぎない。私自身も、この偽反核思想家に対して傍観者の立場を取ったのだと思う。それはいたって反射的な態度だった。
 
 という中でも言えそうなことがある。この映画の主題は次に引用する台詞に表れた。「正気でいるつもりの自分が妙に不安になるんです。狂っているのはあの患者なのか、こんなご時世に正気でいられる我々がおかしいのか」。
 あの患者とは、この物語の主人公である。我々とはこの時代の一般の人たちを指している。こんなご時世とは原水爆実験が行われ、地球滅亡の危機に晒されている時世を指している。このような事象を主客混同とでも言おうか。ものの妙理を体現している。

 主人公は終盤、太陽を見て「地球が燃えている」と叫ぶ。精神病院の中でだろうか。私は彼が初めから狂っていたとは思わない。当初はただの、恐怖に怯えるエゴイストだったのだ。彼はある時、「自分たちだけ助かろうとする了見」が間違いだと気付く。そこからおかしくなっていったのではないか。自分のエゴを受け入れられない、認めたくない。おそらくそういった葛藤の中で苦しみ病んだのだ。
 
 この物語では一貫して傍観者による偽反核思想家のおかしな行動が綴られる。主人公は自らを真の反核運動家と混同していたかもしれない。だが、真の反核家はこの映画では不在だ。黒澤監督も真の反核家の姿やあり方を提示しなかった。消去法で全体から傍観者と偽反核を差し引いたものが真の反核家かもしれないが、ここでは立ち入らない。ともかく、黒澤監督は最後の真っ黒の空白にそれを示唆したのではあるまいか。
 テーマはシンプル。思想が複雑、込み入っている。「次はあなた方の番ですよ。どうしますか、さあ。」映画が終わった後の真っ黒の空白、これは黒澤明監督から観客への問いかけであり、後世への挑戦状でないか。



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