偉人は肩書きに囚われない
「人生詰んだ」状態をリセットする魔法
第3章 私の激動人生
・プロフェッショナルが集まった家族
・富豪から極貧への転落
・偉人は肩書きに囚われない
・因果を辿れば夢は簡単に実現する
・10年で10倍になった
・偉人は肩書きに囚われない
「何を言っているかの内容よりも誰が言っているかが大切だ」
数年前、知人に誘われて胡散臭い会社の企画会議に出席したことがある。
大学生対象にセミナー事業を立ち上げたいので意見を聞きたいと言うことだった。
代表者が得意気に語っていたが、どうも的が外れている。
こちらがそう思っている場合、大抵は相手も同様のことを思っている。
その会議は終始微妙な雰囲気のまま終わった。
私がその企画に関わることは無かったが、彼らはその後、セミナー事業を立ち上げ、全く反響が無くすぐに撤退したらしい。
大学生対象の事業なら権威云々よりも、今の大学生のことをもっとリサーチすべきだったと思う。
昔は偉い人の意見は絶対であり、内容よりも権威性が重視された。
しかし、上意下達の時代は終わり、今の若者は権威よりも中身を重視する。
いくら偉い人や有名な人、権威のある人の話でも、内容が無ければ聞かない。
逆に、無名の人の話でも、心に強く突き刺されば耳を傾ける。
今の学生はこの傾向がとても強い。
以前は得られる情報自体が少なかったため「偉い人の話は重要に違いない」と聞いていた。
だが、インターネットや動画の普及で、「偉い人の話は現実とズレていることが多い」と既に学生は知っているのである。
よって、人よりも内容そのもので判断する。
権威ある人からすると、忖度しない態度は癪に触るかもしれないが、それで怒るような人とは、いくら権威があったとしても縁を切った方が良い。
私も長らく様々な人と出会って来たが、相手の肩書きによって態度を変える人は多い。
私が思うに、表向きにお世辞が上手い人は、その分、陰口も酷い。
また、利用価値が無くなると判断するや否や、一気に態度が豹変するのもこの人種である。
もう一度言う。
そんな人とは縁を切った方が良い。
彼らは、相手を「人」ではなく、「道具」として認識している。
自分を利するための搾取しか考えていないため、なるべく関わらないのが正解だ。
一方で、リーダーとして人望の厚い人は、たとえ年下や子どもであっても「人」として丁寧に接する。
それを教えて頂いたエピソードを二つ紹介したい。
一つ目は、私が高校生の頃である。
日本文化に興味があった私は、総合学習の発表のため、国民歌手の三波春夫さんに手紙を書いた。
すると、段ボールいっぱいの資料と、丁寧な直筆のお手紙を頂戴した。
その後も逝去の直前まで教えを賜った。
たかが高校生の手紙一つにも誠心誠意、ご丁寧に対応して下さったことに感激し、「これが本当の一流なんだ」と心から尊敬した。
二つ目のエピソードは、大学生の頃の話である。
たまたま受講した教授の講義が素晴らしく、とても感銘を受けたので、後日、友人を誘って教授に話を聞きに行くことにした。
その教授は、大学で教養教育院の院長、国際言語文化研究科の研究科長を兼任され、両組織の設立に陣頭指揮を採られた。
まさに大学の改革者であった。
当時、私は河合塾でアルバイトをしていた。そこで参加者を募り、教授に時間を割いてもらいインタビューをした。
時間があっという間に過ぎ去り、終了時刻をオーバーしてしまった。
分単位で予定が入っていると聞いていたので、
「先生、この後、重要な会議があるのではないですか?」
と聞くと、
「そんなもん、待たせとけばええ!君たちとの時間の方が大切や!」
なんと、この教授は、学内の教授会議よりも学生の疑問に応えること、声を聞くことを優先したのである。
多くの凡人は肩書きのある人の方を向き、偉い人の声ばかりを聞く。
しかし、時代を創り上げ、真のリーダーと呼べる人は、きちんと現場の声に耳を傾ける。
一人一人の小さい力が自分や組織を支えていることを熟知しているのである。
不用意にお世辞や忖度で生きていると、二流三流しか集まらない。
二流三流に利用されて喜んでいては、いつまで経っても一流とは程遠い。
一流は口先だけのお世辞や忖度など、すぐに見破っている。
その向こう側にある本心のみを見ているのだ。
若い時に真の一流に出逢えるかどうか。
それによって人を見る目が養われ、後の人生を左右する千載一遇の宝となる。