2019年 信州大学 二次試験 日本史
かっぱの大学入試に挑戦、19本目は信州大学の日本史。2020年度の問題の方が面白そうではあったのですが、史料がきちんと掲載された問題を入手できなかったため、2019年度のものを解きます。時代は古代・中世・近世で1題、近代で1題。形式は用語記述+論述。では、以下私なりの解答と解説。
第1問(実際の入試では地歴共通で問題3ということになっています) 日本の都市
問1.解答 A:平城京 B:飛鳥(飛鳥浄御原宮) C:鎌倉 D:江戸 E:堺
解説 古代から近世にかけての都市に関する基本問題。Aは「元明天皇の時に遷都」から判断。平城京遷都時の天皇は元明天皇。Bは「ヤマト政権の政治拠点」「7世紀にはこの地にほぼ定まり」とあることから飛鳥と判断できるが、問題は「宮都の名称」を問うており、「壬申の乱に勝利してこの地で即位」とあるので、飛鳥浄御原宮の方がよりふさわしい気もする。Cは「南を海、東・北・西の三方を自然の要害に囲まれた」という地形からも判断はできるが、「武士団が集住する、軍事要塞としての機能」といった特徴からも、武士の都である鎌倉を想起したい。Dは「太田道灌が築いた戦国城下を土台」では難しいかもしれないが、大名の妻子の「在府が制度化」、「多数の家臣団・奉公人」「膨大な数の商工業者集住する大都市」といった特徴から将軍のお膝元である江戸と判断。Eは「摂津国と和泉国にまたがり」もヒントだが、「日明貿易・南蛮貿易などの拠点として栄えた」「自治都市」で堺と判断したい。
問2.解答 ア:条坊制 イ:天武天皇 ウ:館 エ:参勤交代 オ:会合衆
解説 古代から近世に関する基本問題。アは「東西・南北に走る道路で碁盤の目状に土地を区切る」都市区画といえば条坊制である。土地の区画である条里制との違いに注意。イは「壬申の乱に勝利」で判断。壬申の乱は大友皇子と大海人皇子が争い、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位した。ウは鎌倉時代の武士の居住なので館と判断。エは「大名」に関わる「制度」で「多数の家臣団・奉公人」が集住する結果となったものといえば参勤交代であろう。オは堺の自治を担っていた「豪商の合議」なので、36人の会合衆のことである。
問3.解答 遣唐使の派遣により、律令制度の下で整った唐の仕組みを学んだ日本は、唐の都の長安のように大規模な都城を築き、中央集権化した国づくりを進めていこうとしたため。
解説 設問の要求は大規模な古代都城が建設されるようになった理由を説明すること。条件として、東アジア世界の国際交流という観点をふまえることと、「遣唐使」「長安」「律令制度」の語句を用いること。指定語句だけ見れば、遣唐使で律令制度の整った唐の都の長安を目の当たりにしてそれをまねようとした、という話になるが、ここはやはり「中央集権化した」国家にふさわしい都城を作ろうとしたという意図も盛り込みたい。
問4.解答 桓武天皇が遷都した後、平城太上天皇の変を経て嵯峨天皇の治世になると、京都は平安京として政治・文化の中心となっていった。12世紀末に鎌倉に幕府が成立し、承久の乱後に六波羅探題が設置された後も、京都は朝廷の拠点として機能し続けた。室町時代になると幕府も京都に置かれ、足利義満のころには花の御所も築かれた。15世紀後半に応仁の乱で京都は荒廃したが、京都の商工業者ら町衆によって復興は進み、豊臣秀吉は壮麗な聚楽第を築いて天下統一の拠点とした。江戸時代に移っても、京都は天皇のお膝元として重視され、幕府は京都所司代を設置して直接支配した。京都は商工業も盛んであり、三都の一つとして江戸時代を通じて栄えていった。(300字)
解説 設問の要求は京都の古代から近世までの歴史的な変遷を説明すること。条件として「応仁の乱」「京都所司代」「三都」「聚楽第」「平安京」「町衆」の語句を用いること。通時代的なテーマを問う問題。基本的に時系列で説明していくと良いが、指定語句が時代に沿って使用できているか、指定語句が無いような時代もきちんと説明できているかがポイントになろう。構想としては、平安時代(桓武天皇の遷都・嵯峨天皇以降の安定)➝鎌倉時代(朝廷の拠点としての意義・六波羅探題の設置)➝室町時代(幕府と朝廷の拠点・応仁の乱での荒廃・町衆による復興)➝織豊時代(秀吉による聚楽第の建設)➝江戸時代(天皇家や公家の拠点として重視・京都所司代による直接支配・商工業の発展・三都の一つ)といったところになるだろう。もちろん各時代、もう少し細かな点も挙げられるが、字数の関係で上手く取捨選択したい。
第2問 第一次世界大戦
問1.解答 D
解説 A誤文。第一次世界大戦はオーストリアの皇太子がセルビアの青年に暗殺されたことがきっかけで始まった。B誤文。第一次世界大戦において、ドイツの無制限潜水艦作戦を契機にアメリカは連合軍側で参戦した。C誤文。ロシア革命は第一次世界大戦後ではなく、第一次世界大戦中に起きた。D正文。第一次世界大戦においてドイツは対フランスの西部戦線と対ロシアの東部戦線の二正面の戦争をすることとなった。日本史においても世界史の動きについて、特にA~Cが誤文であると判断できるだけの理解はしておきたい。
問2.解答 第一次世界大戦に、日本は日英同盟を理由に参戦し、東アジアに対しては、中国におけるドイツの根拠地であった山東半島に出兵した。さらに袁世凱政権に対して二十一ヵ条要求を突き付け、山東省のドイツ権益の継承などを認めさせた。また、段祺瑞政権に対して西原借款を与え、中国に対する権益を拡大した。このような動きの中で、日本はアメリカと石井・ランシング協定を結び、中国における特殊権益を認められることとなった。第一次世界大戦後には、ヴェルサイユ条約によってドイツ権益の継承が国際的に認められることとなったが、中国では不満の声も高まり、ヴェルサイユ条約締結に反対する五・四運動が北京で起こり、全国に広がっていった。また、第一次世界大戦後には民族自決の意識が高まり、朝鮮においても三・一独立運動が発生した。日本政府は武力で厳しく弾圧したが、後に朝鮮の支配を武断政治から若干改めることとなっていった。(389字)
解説 設問の要求は第一次世界大戦に参戦した日本が東アジアにおいてどのような対外関係を取り結んだか説明すること。条件として「三・一独立運動」「二十一ヵ条要求」「民族自決」「ヴェルサイユ条約」「五・四運動」の語句を用いること。指定語句を見ると、第一次世界大戦後のものが目立つが、設問の要求は「第一次世界大戦に参戦した日本」が取り結んだ対外関係なので、しっかりと大戦中の動きを整理したい。ただし、「東アジアにおいて」と述べられているので、ドイツ領南洋諸島の占領など、東アジアと関係ない地域の話は割愛したい。そうなると、日本の行動としては、ドイツ領山東半島への出兵、青島と山東省の権益確保、袁世凱への二十一ヵ条要求、段祺瑞への西原借款、アメリカとの石井・ランシング協定あたりが該当するだろう。そこから第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約の締結、中国における五・四運動、朝鮮における三・一独立運動、その背景として民族自決の意識の高まりといった、指定語句に関わる動きを説明できると良い。
以上で終わり。問題数はそれほど多くない感じでしたが、その分論述をしっかり整理して書く必要がありますね。久しぶりに正誤問題を解きましたが、こういう問題こそ解説のし甲斐があります。
次回は信州大学の世界史の予定。