まめこちゃん
最初に書いておこう。このまめは、豆ではなく、几帳面の意味の、まめである。
小学校のとき、同じ学年に、とにかく、本をよく読み、感想文を書いては、賞をとり続ける少女がいた。名前は、まみこちゃん。だが、学校の先生方は、まめこちゃんと呼んでいた。
彼女が、まめに本をよみ、まめに文章を書くからだという。
この、noteの世界には、そういう方が、たくさん存在する。
私には、彼女は、いつも図書館にいて、本を読み、本をたくさん借り、大人しい感じもしたし、友達もそれほど多くは見えなかったが、寂しそうでもなく、孤独をむしろ楽しんでいるような感じがした。だが、かといって、無愛想でも、暗くもなかった。普通ではあったが、言い方は少し変かも知れないが、どこか、孤高な感じがした。
当時の私は、本を、あまり読まなかった。むしろ、外で遊んでばかりいた。本を読んだりしている人のことには、あまり興味がなかったが、彼女のことは、ちょっと、格好良いように感じていた。
時を経て、私は、中学、高校になり、予備校を経て大学へと進学すると、徐々に、時間があれば、何かを読むようになった。恐らく、本を落ち着いて読む人に対する、尊敬に似た感情が、心のどこかにあったからだろう。そんな憧れから、そういう習慣が、後天的に、備わっていったように思う。
私は、今、思うのである。なぜ、私は、noteの世界にいるのか。
その答えも、手がかりも、今は、手元に、何も無い。
ただ、まめこちゃんのことを、最近、よく、思い出す。
家内は、私が書くnoteの記事にも、私が読むnoteの記事にも、何も、興味が無い。
ただ、どんな記事を書いたか、そして、書こうとしているかを、私が、ただ、独りごちているだけだ。
それを、家内は、右から左に、聞き流している。
私が机に向かって、この記事を書いていると、家内が声をかけてきた。
明日、また、車で、長女の家に行くらしい。
なんでも、長女の家の浄水器フィルターが我が家に届き、それを持っていくのと、ブルーレイプレーヤーを、どこかで探して、できればそれを、購入して持っていきたいらしい。
長女のブルーレイレコーダーは、かなり古く、とうとう、プレーヤー機能が動かなくなった。
我が家は、家内も私も、過保護である。そして、長女は、過保護のカホコである。
また、小志朗(注1)に乗り、家内との珍道中が展開する。そこで、記事のネタが手に入るのかどうかは、行ってみないと分からない。
私は、まめこちゃんほど、まめではない。本は最近、ほとんど読めていない。文章も、まともに書けていない。
私は、家内にこたえた。
じゃ、一緒に行くよ。いや、行かせてもらうよ。
家内は、いつものようにこたえた。
うん。じゃ、一緒に行こう。
心の中の、リトルkojuroが、後ろから私の肩をそっとたたいて話しかけてきた。
まめこちゃん、どこで、どうしているのかな。まだ、本を読み、文章を書いているんだろうか。
今夜は、雨だ。
雨も、たまには、良い。
ゆっくりとした時間の中で、自分自身との対話をすることも、時には、良いものなのだと思う。
そして、私は、ゆっくりと、パソコンを閉じた。
(注1)我が家の車には、名前がついている。「小志朗」と書いて、「こじろう」と読む。私が、勝手につけたが、家族全員が、小志朗と、呼んでくれている。