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呼び出し

私は、小学校入学早々、忘れ物の王様というあだ名を担任の先生につけられた。なぜなら、本当に忘れ物が多かったからである。それも、尋常じゃないくらい多すぎた。時にはランドセルを忘れることもあった。

教室の後ろの黒板につけられた忘れ物グラフは私がダントツで走りすぎて天井の半ばまでいき、そこで先生は記録をつけるのを断念した。私に、

長い教師生活の中で天井まで届いたのはあなただけです。

と言って呆れられた。

先生は、私を目の敵にしているようだった。いつも注意をされる。ふざけていると教科書やノートやハーモニカを取り上げられる。両手にバケツを持たされて廊下に立たされる。我慢できなくなってそれをわざと廊下にぶちまけると、容赦無くゲンコツで脳天を直撃される。

私も頑固なので、取り上げられた教科書はいずれ黙っていたら返してくれると高を括っていた。少なくともその教科書は持ってくるのを忘れることがないから、かえって都合がいいくらいに思っていた。が、先生は次のその教科の授業になっても返してくれることはなかった。そして授業が始まり、私の机の上に教科書がないことをわざわざ確認に来て、

あなたの教科書はどこにあるんですか?

と、私に聞くのである。

私は、

先生にとられました!

と、わざとらしく言い放つ。教室は爆笑の渦になる。そしてまた、脳天直撃のゲンコツが振り下ろされる。

今では考えられないような体罰である。その先生は女性で、年配のベテラン先生だった。

もう秋も深まる頃だった。ある日、先生に突然、呼び出された。放課後、ひとりで教室に来なさいという。

私は、実はその頃にはかなり学習していた。あからさまに先生に戦いを挑むようなことは控えていた。ちょっとは成長していたのだろう。だから、今度はどんなことでゲンコツをもらうのかと思いを巡らせるが、小さなことは思いついても、放課後に一人きりで責められるほどの大それたことは思いつかなかった。


放課後、終わりの会も終了し、ひとり、またひとりと友人たちが教室をあとにする中、私はひとり席に座り、担任の先生との決戦の時を待っていた。

現れた先生は、静かに引き戸を締め、先生用の机に座り、私に前のほうに来るように言った。そして、連絡帳を出すようにと切り出した。

一瞬、忘れてきたかと思ったが、入れっぱなしのランドセルの奥の方に連絡帳はくしゃくしゃになって横たわっていた。

先生は、

これじゃ、連絡帳が可哀想だね。

と、笑いながら丁寧にシワを引き伸ばし、ペンをとって母への連絡事項を書き始めた。

お、これは、ゲンコツはないのかな・・・・

すると、

あのね、コンクールに出した読書感想文が表彰されるから、それを書きます。今日は帰宅したら必ずすぐに、お母さんに連絡帳を渡してください。

ん?怒られるんじゃなかったのか、なんか心配して損したなぁ。

私の感想は、それだけだった。毎日毎日、怒る怒られるの関係しかなかったので、こんな笑顔の先生は、見たことがなくちょっと驚きだった。これならば、放課後にだけ、先生に会うことにしたいものだ。

怒られるのではないことが分かると、気分が無性に軽くなり、先生が連絡帳に書いているあいだにそれを覗き込みながら、先生に質問をしてみた。

先生も、泣くこと、あるの?

すると先生は驚いたような顔をしてこっちを向いて、

あるよ。映画とか見て。悲しくても、嬉しくても、泣いちゃう。鬼か何かと勘違いしてない?私のこと。

それ以上は、プライベートのことは、多分、話をしていない。二人には、それだけで十分だったのである。

今までの人生で、いろんなことを忘れてきたが、この時のことはある程度以上に鮮明に覚えている。今でもその先生の顔は思い浮かべることができる。名前もフルネームで覚えている。受けた体罰も今では自虐的笑い話の鉄板のネタである。

私はなぜかそのあと、学校というものがそれまで以上に好きになった。そして、学校の先生という存在が好きになった。教師になる道は選ばなかったし、なろうとしてもなれなかったとは思うが、その時にもらった小さな小さな銀賞の盾は、今でも実家の飾り棚に、大切に飾ってある。

-おわり-

今日は、西宮 ながた整体院 さんに、先日軽く誘われたので、上のサポート企画に参加すべく、そのテーマで書いてみた。ただ、この記事が先生を少しでも励ましたりする効果は、どうも、無いような気がする。これは、気のせいだろうか。


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