ジョーカー
私の記事に、兄も最近何回か登場してきて、ちょっとおおらかでないようなイメージがあるかも知れない。確かに勉学も優秀で、几帳面で潔癖では、ある。そういう意味で母には料理について時々真剣な提案をしたりしていたが、実は兄は、よく笑う、優しい、しかも、お茶目な兄である。
あれは私が中学、兄が高校の頃だったか、ある土曜日、ちょっと寄り道をして遅めの帰宅をした。家の鍵はポストに隠してあるのだが、無かったのでてっきり母が家にいるものだと思った。
ただいま。
私は玄関から台所を通り、兄との共同の部屋に入って、重い鞄を放り投げた。だが、誰も返事をしなかった。
だれもいないはずは、ないな。
隣の寝室に入ると、鏡台に向かって座っている人影が見えた。薄暗がりなのと、窓に向かっていて逆光だったため、シルエットが飛び込んできた。母だ。暗い部屋で何をしているのだ。
ただいまって!
と、大きな声で声をかけた。でも、何も答えない。
父が大病を患った後だったので、母はちょっと不安定な時期があった。ひょっとしたら落ち込んでいるんじゃないかと思ってゆっくりと近づき、
大丈夫か?
と、後ろから顔を覗き込もうとした瞬間、母がガバッと後ろを向いてしゃがれた大声で叫んだのだ。
お・か・え・りっ!
私は一瞬、腰を抜かすかと思うほど驚き、のけぞるように後ろに尻餅をついた。
それは、カツラを被り、口紅を塗り、化粧を塗りたくった男だった。
その男は、倒れた私に覆いかぶさるように寄ってきて、顔を近づけてくる。
待て、待て、やめろっ!助けてくれ!!
手で避けようとするが、その男はゲラゲラ笑いながら満面の笑みで顔をさらにすり寄せてくる。
参った!参った!許してくれ!
そこまでいうと、その男は勝ち誇ったように大笑いをして立ち上がった。
鍵が空いているからといって無用心に家に入ると、誰がいるか分からないぞ!気をつけろ!
そしてさらに、高笑いをして、カツラをとり、私に向かってポトンと落とした。その態度、セリフ、悪者特有の高笑い、そして顔は、まるで映画から飛び出てきたジョーカーのようだった。
実体は、兄だった。兄の笑いは、なかなか止まらず、しばらくご満悦だった。
その頃、私の身長は既に兄を超え、力も強かったのでケンカでは負けることはなくなり、かなり兄にぞんざいな口をきくようになっていた。つまり、生意気だった。兄がいつ頃帰ってきたのかは知らない。そしてどれだけの準備をして、どれだけの時間、待っていたかは知らない。しかし、完全な計画的犯行に、まんまとハマった。一瞬、兄には女装の趣味があるのかと訝ったが、その後、兄のそういう格好を見たことは無い。
頭のいい人間というのは、時に、他人の想像も及ばない奇抜な行動に出るものなのだと、その時はじめて、身をもって知った。