夜散歩 九十九橋~心霊スポットの“寿命”~
福井駅から九十九橋まで歩いてみました。
九十九橋とは
明治治初等の九十九橋(福井強度歴史博物館HPより)
九十九橋(つくもばし)は、福井県福井市の足羽川下流部に架かる、福井県道6号福井四ヶ浦線上にある橋。現在の橋は1986年(昭和61年)に架け替えられたもの。
(Wikipediaより)
現在は、片側二車線のコンクリート橋で、車通りも多い、めっちゃ普通の橋です。
かつては、足羽川を渡って福井城下に入る唯一の橋で、城下に接する北半分は木造、足羽地区に続く南半分は石造という、半石半木の特異な橋だったそうです。
この構造は有事の際に、城下に接する木造を破壊し、敵の進軍を阻む目的があったと言われています。
技術不足だとか、財政的な問題だとか、そんな理由では断じてないと、わたしは信じたい。
明治後期には木製の橋となり、昭和初期にはコンクリート橋に、そして1986年に現在の姿になりました。
辛うじて平成生まれのわたしは、現在の姿しか見たことがありません。
九十九橋の怪談
割と有名だと思うのですが、九十九橋には有名な怪談があります。
北之庄で自害した、柴田勝家公とお市の方の命日・旧暦の4月24日の丑三つ時に、首のない馬と落武者の行列が、九十九橋を渡る。
その行列を見た者、またはその話をしゃべった者、さらにはその話を聞いたものを含めた人間達が、血を吐いて死んでいく。
カヤコさんばりにタチが悪いです。
「関係者が全員死んだのなら、誰がその話を現代まで伝えたんだ」という突っ込みもあると思うのですが、
この武者に出会い、相手から「何者か?」と問われるので、その時「勝家公の家臣である」と答えると、命までは奪われずに済むと言われている。
という、撃退法を伝えると同時に、ストーリーの突っ込みどころをキッチリ補完する注釈で締め括られています。
さすが現代まで生き残る怪談、隙がありません。
九十九橋の人柱伝説
首のない武者行列だけでお腹一杯なんですが、九十九橋には、古い橋にはつきものの、人柱伝説もあります。
この橋の築造について、母と子の悲しくも美しい物語が伝えられています。
勝家は、石場の石工頭の勘助に、石材四十八本の切り出しを命じ、もし期限までに納めないと死罪に処す、と申し渡しました。
勘助は部下を励まして四十七本は切り出しましたが、残りの1本がどうしたことか、寸法が少し短くて柱に適しません。期限は迫ってくるし、あらたに切り出すのでは間に合いません。
勘助は思いあまって死罪を待つばかりでした。勘助には年老いた母がいました。病気で寝ていたのですが、息子の悩み苦しんでいるようすを見て言いました。「私には、かねてから用意しておいた石棺があります。その中に、生きたまま私を入れてください。この石棺を台にして柱を建てれば、寸法の不足を補うことが出来ます。私が人柱となって橋をお守りしましょう。」
勘助は、息子を思う母の悲しい決心に泣きながら従いました。
この人柱は、水ぎわから西南二本目の柱だと伝えられています。
勝家公がブラック上司すぎて辛い。
もちろん、九十九橋が半石半木だったのは今は昔、もし人柱が事実でも、恐らく撤去済みだと思います。
しかし、石室と寸足らずの柱を重ねて……って、それ強度的にマズイよ、おばあちゃん。
しかし、人柱の伝説って、大抵このような美談なんですよね。
泣きわめきながら埋められたとか、そういう話ってあまり聞きません。
歴史は強者のために強者によって作られるからですかね?
心霊スポットの寿命
幽霊には寿命がある、というのは、オカルト界隈ではよく聞く話。
きっと、心霊スポットにも、寿命があります。
九十九橋は、心霊スポットとしては既に終わってしまった場所なのだと思います。
九十九橋の怪談も、街灯に照らされて、当たり前のように人が行き交う現代では、成立しなくなってしまいました。
彼らが本当に存在したとしても、別に、それでいいような気がするのです。いつまでも忠義と噂に囚われているよりは。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?