小説『雨上がりの虹』第一章(愁視点)ー上ー
【第一章 プロローグA /HAL】
たりー、と思いながら、背中に大きな羽根の生えた青年は、今日告げられた本日の仕事内容を記したレジュメを見返した。
『相原愁。22歳。大学四年生。絞首自殺』と黒い文字で記されている。
同年代だ。というか、俺が今年24歳だから……と数え、自分より若い。
一期一会なんだからちゃちゃっと済ませちゃえばいいんだろうけど、やってらんねぇな。サラリーマンあがったりだよ。そう、脳内で彼はぼやいてから、その背中の大きな羽根を羽ばたかせて空を飛んでいく。
【第一章 プロローグB /相原愁】
ある六月初頭、初夏の日。群青色とえんじ色が混じった夕暮れ空の中、溶け込むような小雨が降る夕方のことだった。
外では緩慢な小雨が降りしきるなか、青年は一人自室でパソコンの画面を見ていた。
その部屋は、一見、ものが多いようで何一つ有意なものがないような部屋だった。床には、これみよがしに床に散らばった書類。薄汚いベッド。無駄にバックライトが明るい大きなパソコンディスプレイ。
唯一使えそうな有益なもの、首吊り紐。
青年はパソコンの画面から目をそらし、宙に吊られたそれをぼうっとみあげた。
しばらく呆けていた頃合いだろうか、電話がかかってきた。 青年は電話をとった。
「あら、最近どうかしら、うまくいってる?」
青年は状況をすぐに飲み込んだ。 質疑応答の時間が開始したのだ。議題は『この青年の近況と進路について――』
青年はスマートフォンから流れる音声に対して生返事を返す。
どうやら声の主は女性のようだ。 母親ぐらいの年代だろうか、声のわりにやけにはしゃいだ喋り方をしている。
「すごいわ。やるじゃない、愁ちゃん」
愁ちゃん、というその妙にねっとりとした呼び方に、青年は画面のこちらで少し引き笑いをした。もちろん、電話の向こうには伝わるはずもない。
女性はさらに舞い上がったような喋り方で続ける。
「あら、もう、すごいじゃない!!どこの会社なの!」
「三友商事、大船商事、HK銀行だよ。どこも東証一部上場企業」
青年は、あらかじめリハーサルしていたかのように、大企業の名前をよどみなくすらすらと口にする。
「ほんと素晴らしいじゃない!さすが!私の息子ちゃんだわ…!」
「……だろ?」
そういって、青年は電話をぶつ切りにする。
―――本当に気付かないんだな。 気づかないんだろうな。
―――他人なんて、期待するだけ、無駄。
―――無駄か。
青年は自室の床に散らばる白い書類の束を見やった。封書に入っているもの、破かれてコピー用紙の白い肌を露呈しているもの、様々な状態の紙が、これ見よがしに床に散乱していた。
共通点は、すべて、その白地の上に、くっきりとした黒文字で例外なく次の魔法の文面が記載されていたことである。
『お祈り申し上げます』
『お祈り申し上げます』
『お祈り申し上げます』
『お祈り申し上げます』
『お祈り申し上げます』
『お祈り申し上げます』
そして極めつけは、最も日付が新しい、青年の前のディスプレイに表示された、メールの文面。
『件名:採用試験結果のお知らせ
相原愁様
……相原愁様の、今後のより一層のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます。』
―――……今後の活躍、ねえ。
いったいどこのステージだろうな、と、相原愁とよばれた青年は思った。
―――だって、俺は、これから。
そう自問して、それから青年は、窓の方を見上げた。 その先には太いロープが天井から吊られていた。
そして、相原愁とよばれた青年は、窓際の方へ行き、これが最後の抵抗だというように分厚い遮光カーテンを大きく開いた。 雨足はだいぶ緩んでいたようで、わずかだが、薄暗かった部屋が少し明るくなった。
これで、シルエット程度なら、うっすらと、外からも内部の様子が見えるようになるだろう。
こんなことして、まるで、誰かの目にとまりたいみたいだな、と愁はぼんやり思った。 そんなことはないはずだと頭では思いつつも、あえてカーテンを閉めなおすことはしなかった。
すこし青年がぼんやりしていると、外の雨足は強くなり、また、部屋が暗くなった。
おそらく、外からはもう部屋の中を見ることができなくなっただろう。
もう、なにかに、期待することなんて、疲れ……たな……。
―――ゼロが一になりかけてやはりゼロに戻った。
―――いいじゃないかそれで。
多分、最後に流れた意識はそんな風なものだったかと思う。
そして、青年はロープに手をかけた。
青年の身体がふっと上がる。
ゴングのように、大きな雷が鳴った。
青年の、時が、止まる。
【1】
その少し後のことである。
降りしきる小雨と気まぐれな遠くの雷が少し収まってきた頃合いに、背中に大きな羽の生えた青年が該当の部屋へとやってきた。
その青年は、こざっぱりとしたカジュアルな服装の青年であった。少し洒落た都会の街ならどこでも見かけそうなごく一般的な若者だったが、ただ一点だけ、大天使のような一対の大きく立派な翼を有している点がごく普通の若者とは大きく異なっていた。
彼は、その大きな羽をはためかせ、マンションの前を少し滑空すると、該当の部屋のベランダにふっと降り立った。そして、中を覗き、部屋の中で首を吊った大学生の様子を一瞥した。 そして、彼は、はあ、と一言、物憂げな様子で小さくため息を漏らし、肩を落とした。 しかし、その後、すぐに、気を入れ替えたかのように姿勢を正し、窓をすり抜けて部屋の中へ入ってきた。
大きな羽根を持った青年は、部屋の中へ入ってくるや否や、天井から首吊られている若い死体を間近で見上げた。
その首を吊られている若者の肢体は、まだ血の気がありそうに見えたが、青年の身体の動きは一部の汗の動きを除いて、既に静止している。
羽根の生えた青年は真摯な表情をして、右手を亡骸の方へ伸ばした。
その青白い首筋に手が触れたとき――いや、正確には触れるはずだという位置にまで手が達した時、青年は愕然とした表情をした。
彼は青年の身体に触れることができなかった。 そして、そのことによって、若者はまだ生きているのだとその時彼は気づいた。
彼は驚くとともに心底安堵した。 これで今日分は胸糞悪い仕事から解放される、と。
その時。
羽根の生えた青年が呆気にとられて、頭上の若者の様子を眺めていると、天井から吊られた若い肉塊から、青年自身の形をかたどった魂のようなものがぬるっと出てきた。
青年は必死に「彼」をその所有していた肉塊まで押し戻そうとしたが、もはや抵抗もむなしく、「それ」は青年の頭上にずり落ちた。
【2】
愁は目を覚ました。
彼は部屋の一角に背をもたれかけさせられて座らされていた。さっきまで降りしきっていた雨は既に止んでいる。
彼は薄目を開けて周囲を見回した。身の回りは何の変哲もない自分の部屋、書類が散らばっている汚い床、ゴミ袋、そして、視界の片隅に入る大きな白い羽根。
……羽?
そう不思議に思って彼が顔を上げると、目の前に見知らぬ男の後ろ姿が目に入った。部屋には見知らぬ男がいた。ここは紛れもなく自分の部屋であるし、自分だけの居城である。
その見知らぬ男は、部屋の真ん中に立ち、彼の手元にある書類と、その向こうの窓の方を交互に見あげながら時折ペンを走らせていた。
愁はすぐに状況を理解した。
目の前の見知らぬ男は背中に大きな翼が生えていた。そしてその先端が、先ほどの白い羽根と同じものになっていた。
また、遠くを見遣ると、その見知らぬ男の向こうに、どう見ても自分のものとみえるやる気のない地味な服装の男が見えた。 まぎれもなく相原愁のそれだな、と愁は感じた。
あれが自分の死に姿か。 冴えないな、と愁は内心苦笑いした。もちろん、生きていても十分冴えないけれど。
要するに、天使が死んだ俺の魂を迎えに来た、ってことだよな。と愁は思った。
愁は羽の生えた青年の後ろ姿を一瞥した。数多ある伝承って本当だったんだな、と妙に感心したが、思ったより天使が神々しくないな、という妙に新鮮な感想を抱いた。愁の目には、目の前の背を向けている男は、神話に出てくるような神々しい天使ではなく、天使役をやらされているただの若い男、キャッチ、といった印象にしか見えなかった。
そう愁が感じたのは、彼の様相が、あまりにもその辺にいる人間らしすぎたからだ。平均的な成人男性の上背にカジュアルなシャツにチノパン、アッシュに染めた髪を癖っ毛に似合わせているさまは、普段、愁が大学のキャンパスで見かけている周りの先輩・後輩達の姿と大差なかった。
しばらく愁がぼんやり見ていると、その「天使」役であろう男は、そのうちペンを走らせる手を止め、手元の書類とにらめっこしてから、何やら、うんこれでいいと自分で納得したように首を縦に振った。そして、すぐさま勢いよく手元のバインダーをぱたん閉じた。
その時、男はようやく愁の気配に気づいたらしい。
彼は、はっとしたかのように振り向いた。愁と目が合う。彼は一瞬、非常に驚いた顔をしたが、しかし、次の瞬間には、社交的で穏やかな笑顔になった。
「はじめまして。でも、もう、さよならかな。気がついてよかった」
羽根のある男は言った。愁は目をそらしたりはしなかったものの、とっさには挨拶にかえす言葉が思いつかず、これといった情報は何も答えなかった。
「まあ、びっくりするよな」天使役であろう男は気さくに笑いながら愁の方へ近づいてきた。
彼は歩きながら続けた。
「何せ君はラッキーだ」
愁はその後の文面を予想した。『もう大丈夫』、『安らかに逝ける』、『安心していい』、諸々。
天使のような羽根をもった男は口を開いた。
「君ホント運良かったなぁー。君の肉体はまだ全然生きててピンピンしている。やり直せるぜ」
愁は表情を変えずに瞬きをした。
羽根の生えた男はつづけた。
「これなら魂戻したらすぐ明日にでも日常生活を送れるぐらい回復できる。なんつーか、俺もこういう奇跡見たことないからびっくりしたし、すごい安心したわー。あ、書類には、「確認したところ生存を確認」とかそういう風に書いといたから。この文面、書いたことなかったからドキドキしちゃったわぁ♡てなわけで、手続き的には大丈夫ちゃんよ」
愁は内心動揺した。予想が大幅に外れたこと、また、生き返って味気ない日常を繰り返さなければならないこと。これではいったい何のために自殺したのだろうか。無表情なままだから、おそらく悟られていない、そう信じたい。
出会った相手が悪かった、と愁は思った。彼に対して悪い人ではなさそうだという印象は抱いたが、それとこれとは別だった。 彼は一度決めたら意地でも愁を殺そうとはしない、というタイプにみうけられた。
もしそうだとすると――。愁は状況を鑑みた。首を吊って意識を失ってそのまま死ねるかと思ったら、どうやら自殺には失敗したらしい、という状況を、うっすらとだが把握した。
だとすると、もう天使役ですらない、ただの羽の生えただけの青年が愁の横に座った。
愁は、これは刑事もののドラマならカツ丼が出てきて穏やかながら強固な説得をされる流れに相当するのだろうな、と予想した。
予想は当たった。
羽根の生えた若い刑事の粛々たるプレゼンが始まった。
彼は愁の横に腰を落ち着け、親しげそうな特有の口調で話し始めた。
「書類によるとな、君の自殺理由って、『就職活動に失敗しつづけ、未来に絶望し、絞首自殺』ってあるんだ。そうなの?」
彼は愁の顔をまじまじと見てから訊いてくる。愁はそれには答えずに無言のまま視線を逸らした。
「まあ、答えたくないのなら、それでいいけど……。それ以外に損傷はなし、っていろいろ不自然なんだよな」といって、男は自分の手元のバインダーをめくりぱらぱらと書類を眺める。
愁は、引き続き無言のまま答えなかった。もぞもぞと足を動かし、体制だけ胡坐に変えた。
「君はつらかったんだろうけれど、死ぬまではないっていう感じ、っていうか、精神病とかでもなさそうだし、君全然やれそうなんだよね…?なんていうか、できることなら俺は死んでほしくないんだよねえ」
申し訳なさそうな声を出して、様子を見るかのような台詞を彼は吐いた。愁は目をそらし、すぐには答えなかった。少し間をあけてから、愁は渋々口を開いた。
「あなたは死んでほしくないでしょうね」
なるべく皮肉っぽく、嫌な奴風に見せるかのようにしゃべってみた。実際はどう映ったのだろう。
「何だ君喋れるじゃん」羽根の生えた若手刑事はすこし嬉しそうに言った。
「そうそう、精神病の人特有のどんよりとした感じもないし、ぱっとみ君なら全然やれそうに見えるんだよね……。無理かな?」
愁は答えなかった。まあ、そういった反応は想定内だ、といった風な口調で、特に愁の塩反応を気にする様子もなく男は続ける。
「なあなあ、何が嫌なのか?」
「……全部だよ」
愁は言った。
「人間関係、将来のこと、自分の駄目さ具合、クズさ、もろもろ。俺がクズすぎて、誰からも必要とされない、誰からも」
「俺にはそういう風に見えないんだけど?」
羽根野郎は心底わからないといった風に首を傾げた。それって誇大妄想が過ぎるのでは、お前は自分で思っているより何の変哲もないごく普通の青年だ、ちょっと自意識過剰では、と逆にたしなめられているような気がした。
「そりゃ、あんたが俺の本性知らないからだろ」
愁は吐き捨てた。
「あんたは俺の何を知っている?」
羽根男は「えっ」と慌てて、パラパラと手元のバインダーをめくった。
「あんたの知ってるってそういうことなん?」
愁は呆れたような声で、少々過剰な皮肉を言った。 意識して嫌な奴を装った。
羽根男はさらに慌てた。
「あっすまん、そういう意味じゃ……」
「……」
愁は視線を逸らして無視をした。死んでもどうでもいいぐらい嫌な奴に映っているといいな。
少しの白けた間があったのち、羽根野郎が、げふん、と気負った音を喉から鳴らして立ち上ががった。
「確かにな」
奴は口を開いた。
「知らない、確かに俺、君のこと、なーんにも知らない」
わかってんじゃん。開き直ったか。認めたうえで今度はどう説得するつもりなんだろうと、愁は思った。
「そこでだ」羽根野郎はつづけた。
「なーんにもしらないからこそいうけど、君が誰からも必要とされてないなんてこと、嘘だと思うぞ」
「嘘じゃねえよ。何にも知らない奴が何を言うんだよ」
「そう、俺は何も知らない」
羽根野郎は妙に自信ありげな態度だった。彼は続ける。
「でも、君の生殺与奪権は、いまのところ俺が持ってる」
愁は、内心、一瞬ひるんだ。もちろん態度では平静を装ったが、顔に出ていないと信じたい。
彼は締めくくりとして、妙なことを言った。
「だからさ、確かめさせてくれ、俺に。君が本当に君が言うように、誰からも必要とされていないのかどうかを」
そういって、奴はにやりとした。それは愁にとっては少し予想外の発言だった。
「そんなの……どうやって……」
「時間を止めて、未来を見てみるのさ。君の死後の世界を今から一緒に見にいかないか?」
聞き慣れない音の響きの言葉に、つい、愁は男の顔を見上げ、肩のほうをまじまじと見た。その向こうの背中から生えた大きな羽根が見えた。たしかにできそうだと思った。
彼のいうにはこうだ。奴は数日ぐらいなら時間を止められるのだという。いや、正確には「止めたということにできる」のだ、と。
ある人の辿った人生とは、ある時点、ある時点で分岐した選択肢が一つ一つ決定された結果あらわれた一本の道筋であり、その周りには、「その人の人生たりえなかった」無数の選ばれなかった未来の残骸があるのだという。
彼が言うには、厳密に自分の進む未来を知ることは誰にもできないが、自分が将来「進んだかもしれない、あるいは、進まなかったかもしれない未来」を覗くことはできるのだという。無数の道筋自体はいつもそこに在るから、それがさほど遠くない、近い未来であれば、少々の道筋は覗くことはできるのだ、と。
この方法ならば、本来進むべき未来自体は傷つかないし、そのまま、いまこの時間まで戻ってこれるのだという。
そして、それはほぼほぼ、その人の未来を覗き見たと同義ととらえていいのじゃないか、と。
しかし、じっさいに、その人物がその人生の道筋の組み合わせを「どう選択したか」は、実際にその時が経過した後になってみないとわからないのだという。
愁はこんがらがってきた。
「まあつまり、数日後ぐらいの未来ぐらいまでなら見れるぜ、ってことさ」
彼は言った。
「数日……」
愁は呟いた。 数日で何がわかるというのだろう。
「数日分あればさ、葬式の時のご親戚とかさ、その後の大学の友人さんのぽっかりとした喪失感とかさ、そういうの、ひととおりみてみてさ。俺、仕事柄そういうのよく見るけど、……あれ見たら死ぬ気なくなるぜ、ホント」
青年は、愁の目線に合わせて親しみを込めた口調で静かに話した。愁は、何もわかってない癖に、と一言いいたくなったが黙っていた。実のところ、青年の言い草自体はいっさい共感できなかったが、「自分の死後の世界を覗いてみる」という提案自体は魅力的に思えていた。しかし、愁は、そのことを極力悟られないようにつとめていた。
「全部お前の都合のいい妄想だな。俺のこと悲しむ奴なんていないから」
「それならそうでかまわない」
羽根野郎は妙に強気だった。実際見てみれば答えはわかる、と愁の否定には取り合わなかった。しまいには、彼は、こう言った。
「君だってせっかくなら死ぬ前に答え合わせしてから、心置きなく、死にたいだろ?」
愁は思った。何て強引な奴だ、と。
そして、愁は折れた。
「ずりーぞ、その理屈」
羽根野郎は、間髪入れず「決まりだな」と、笑って言った。何て強引な奴だ。
愁が渋々立ち上がろうとするやいなや、羽根野郎がそれを待っていましたといわんばかりに、すかさず愁の肩をぐいと引き寄せた。思っていたよりずっと力強かった。
そして、次の瞬間、あたりが白い光に包まれた。――
――そして、彼らはそのまま時空を超えた。