義務感からの解放(結局は「やりたいかやりたくないか」)
自分は義務感で行動するということがない(たぶん)。
ベースとなっているのは、「最終的に行動を決定するのは『やりたいかやりたくないか』である」という考え方だ。
※義務にはいわゆる作為義務と不作為義務がある。前者は「〇〇しなければならない」、後者は「〇〇してはいけない」といったものが該当する。
「義務」「義務感」は一般的に作為義務のことを言うかと思うが、この記事では作為義務と不作為義務両方についての言葉とする。
人は、「〇〇してはいけない」「〇〇しなければならない」という状況でも、最終的には様々なメリット・デメリットを総合的に勘案して(物理的に不可能なものは除き)本当にやりたいことはやり、本当にやりたくないことはやっていないはず。
例えば、「法律やルールで〇〇してはいけないとされている」というのは、「〇〇ができなくなる」ということではない。例として物を盗むのも人を傷つけるのもその気になれば可能である。
そこで〇〇をしないというのは、メリット(満足・利益など)とデメリット(罰せられる、良心の問題など) 、することとしないことなどを比較した結果だ。
できないのではなく、比較結果を踏まえて「やりたくない」のである。
「〇〇しなければならない」ということに関しても、「〇〇をするしかなくなる」わけではない。
やらないことのデメリットよりはマシ、ということでやることを選択している。つまり「やりたい」のだ。
例えば、「出勤しなければならない」かのような状況でも、その気になれば出勤しないことだってもちろん可能だ。(物理的な拘束などがないのなら)自分が職場に出向かない、ただそれだけでよい。
出勤しなかった場合の「業務が溜まる」「処分される」といったデメリットなどを勘案し、「出勤したい」と考え出勤しているのである。
雰囲気・空気に関しても同様。
「〇〇してはいけない雰囲気だった」、「〇〇しなきゃいけない空気になっていた」というのも、結局は雰囲気・空気に抗うか従うかの選択。そこでの行動は「やりたい」からやるのだし、行動しないのならそれは「やりたくない」のだ。
作為義務も不作為義務も雰囲気も空気も、各選択肢のメリット・デメリットに関するひとつの情報に過ぎない。選択権自体は常に自分にある。
もっとも、義務や雰囲気・空気を押し付ける側がそれを言うのは違う気がするので、あくまで自分の気の持ちようとしてではあるが。
念のため補足すると、上述の「やりたい」「やりたくない」は、次の図のように好き嫌いとは分けて考えている。
可能か不可能か
好きか嫌いか
やりたいかやりたくないか
自分が行動を決める際、頭の中にはこれらの軸があり、最終的に行動として出力されるのは「可能」かつ「やりたい」ことである(現時点の不可能をいつか可能にするために頑張るというのはあり得る)。軸になっているくせに好き嫌いは決定的な条件ではなく、やりたいことはやり、やりたくないことはやらない。
なお、可能であるという前提で軸を減らすと、次の図のようになる。
図の左上や右下のように、自分の意思決定においては「好きなことだけどやりたくない」「嫌いなことだけどやりたい」という類型が存在する。
自分は甘いものを食べるのが好きだ。でも減量中だから(チートデイ以外には)食べたくない。
→やらない自分は仕事が嫌いだ。でも合法的かつ安定的にお金を稼ぐ手段として仕事はしたい。
→やる
「最終的には様々なメリット・デメリットを総合的に勘案して(物理的に不可能なものは除き)本当にやりたいことはやり、本当にやりたくないことはやっていない」というのはそういうことだ。
以上が自分の考え方である。
「〇〇しなきゃ」ではなく「〇〇したい」、「〇〇しちゃだめ」ではなく「〇〇したくない」。
義務感ではなく、あれもこれも自分の意思で主体的に選択する。
このように考えたことにより、自己決定感というか、義務感からの解放というか、精神的自由というか……狙ったわけではないが、結果として義務感に縛られた状態よりも精神衛生上非常によい気がしている。