村上春樹「1Q84」を読んで感じたこと、考えたこと
2011/3/30
柳屋敷の老婦人は「既得権益層・権力層」の、タマルはその支配下の「暴力装置・治安組織」のメタファという風に読めば、現在の日本の問題とダブって感じられます。
思考停止によって罪を犯してしまうが、途中で自分の行為に気づいて自殺しようとした青豆は、上司の命令で犯罪に加担してしまった優秀な官僚にも思えます。
セーフティーハウスの爆発してしまったドイツシェパードは、証拠改竄で捕まった某元検事を思い起こさせます。
リーダーや戎野先生は、国家の理想を目指す革命思想家ですし、小松や牛河は権力に刃向かえない、権力に雇われたジャーナリズムのようです。
こんな風に考えれば、天吾(私たち)は、父の呪縛を捨てる必要がある。そして、青豆(罪を犯してしまった優秀な若者)を見捨てちゃいけないのも頷けます。教室で手を取り合ったのは純粋な正義の記憶か。
青豆が老婦人から借りて読んでいたのが「満州についての本」だった、などというのは細かいですね。
天吾の公園の滑り台に立つ行為は、誰かに見つかってしまうリスクを負ってでも、ネットで正論を発信する勇気ある行動に重なります。ただ、匿名で誰かの考えをぶつぶつ繰り返すだけでは私たちはリトルピープルになってしまう・・・。
そう、死んだ盲目の山羊の口から出てきたリトルピープルとは・・・・。
これは中原中也の詩、「山羊の歌・盲目の秋」から来ているものだと確信しています。
その詩の一部に、次のような言葉があります。
「自恃」とは、自分を頼ること。
人は、他人の指示に従っているだけでは罪を犯す、ということだ。
上司も、教師も、場合によっては親をも疑う必要がある。
「おかしい」と感じた時に、そこで思考停止してはならない、という警告でもある。
その「自恃」のメタファである「盲目の山羊」が死んだのだ。
その口から出てくるものといえば、「意味の失われた言葉」や「匿名の無責任な言葉」。
リトルピープルの正体は、「考えることを止めた人間の発するすべての言葉」だ。
インターネットでも、匿名性の高い「2ちゃんねる」などは例外があるにせよ、リトルピープルの巣窟だ。実名を原則とするfacebookとは違う。
・・・・そういえば、柳屋敷の老婦人は、網(=ネット)がキライでした。
青豆が誰かに銃を向けるとしたら、それは自分ではなく、タマルに対してでなければならないのではないか。
この「1Q84」を何度も読み返し、最近のニュースを見ていると、こんなことを感じるようになりました。
村上春樹、私は読まずギライでした。
はじめてまともに読んだのが、この「1Q84」でした。
なかなかの哲学書です。
思い出した時に追記(2011/9/1)
ふかえり の喋り方には随分と妙な特徴がある。修飾をそぎ落としたセンテンス、アクセントの慢性的な不足、限定されたボキャブラリ。頭の中で疑問符を付けないと、疑問文であることが判らないような口調。・・・・これらの特徴が何であるのかを考えた。その結論は「ロシア語」だ。単語と単語を並べただけで、冠詞や助詞がほとんどないの文章。疑問文が普通の構文と同じ(すなわち疑問符を付けないと質問なのかどうかがわからない)など。
ふかえり は、ロシア文学のメタファなのだ。
その ふかえり と天吾が結ばれた性交場面は、村上春樹がロシア文学に対して強烈な合一体験を持ったことを表す。そして、その時に天吾の頭の中に浮かんでいたのは「小学校の教室で青豆と手を握った記憶」だった。これは「ピュアな正義のもたらした”愛”」ではないか。
思考停止によって殺人を犯した青豆。これは村上春樹がインタビューしたオウム信者のメタファでもある。
いずれも、殺人という重罪を犯してしまった以上は断罪されるべきである。
事実、Book2の最後で村上春樹は青豆を自決させた。(一旦は自決させたのだ。)
しかし、村上春樹は「思考停止によって罪を犯した者」が死刑になればいい、という結論では終われなかったのだ。
Book3において青豆は生きていた。それだけでなく、天吾との距離を縮め、最後には手を取り合って「月が2つの世界」を出て行く。
罪は裁かれなくてはならない。しかし、そこに「大いなる赦し」が与えられたのだ。
古い記憶の中で天吾の母が乳首を吸わせていた父親ではない男。天吾はそれが本当の父ではないかと考えていた。そして、ふかえりの父の描写は何かに重なる。それは、ロシアの文豪・ドストエフスキーだ。
思い出したことをメモしかけたが、まとめられない。
けれど、この私のメタファの捉え方は、もう後戻りすることはないと思う。
どなたか、ご意見・ご感想があれば、聞かせて下さい。
天吾は「数学」が好きで得意だが、これは村上春樹の「米文学の翻訳」好きのメタファであろう。
天吾が、ふかえりの「空気さなぎ」をリライトする体験を通して、自分の書きたいものが明確になっていく過程は、村上春樹が翻訳によって強い刺激を受けたことを表しているのではないか。
現実に、村上春樹はオウム取材を経験して「1Q84」を書く動機となったと思われるが、村上春樹が「オウム事件」取材から受けたものが、ドストエフスキーの「罪と罰」と重なったのかもしれないと思う。
追記(2011/10/17)
原発事故に対する東電や政府の対応に関するニュースを追い続けていて、ふと「ふたつの月」を連想した。
「ふたつの月」というのは、「ふたつの正義」ではないのか、と。
月光仮面やセーラームーンの謂われはここにあるのではないか。
人や組織の行動原理のひとつ「正義」が対立しているのだ。
アメリカの正義とイスラムの正義は激しく対立するし、その他のテロリストが破壊行為を「聖戦」などという。
この正義が分裂していることを明確に(漠然とでも)意識したときに、「月はふたつ」に見えるのではないか。
知り合いの占星術に詳しい方に質問してみた。「月に正義、またはそれに類する意味はありますか?」と。
そうしたら、「月は太陽と対になって考えられているので、陰と陽なら陰、公私なら私のほうの象徴ですね。理性と本能なら本能のほうなので正義のま逆のもの裏側のものという感じでしょうか。いえこれは象徴学的にはということですが。」というような返答が返ってきた。
私の思いつきは間違いか、と思う。では「悪」の方が二つに分裂しているのか。
「リトルピープルは善でも悪でもない」とリーダーは言った。
しかし、思考停止は罪を犯す、ということを考えれば、匿名の、無責任な言動は罪、つまり悪だとも言えるのではないか。
明確な確信的な犯罪、たとえば殺意をもって人を殺傷したり、遊行費のための盗みなど。
いや、普通の人々から見て明らかな犯罪と、そうは見えない「悪」。
異形、・・・普段と異なることをして、風景の見え方が変わる。
同様に、普段と異なる体験が、突如としてこれまで見えなかったものが見えるようになることがある。
一度それを知ってしまうと、「月がひとつだった世界」には戻れない。それまで意識していなかったもの(こと)を一度意識してしまうと、(普通は)忘れられない。
こういう「ものの見え方」が変質して、見えていなかったものが見えるようになった。
これが「月が二つの世界」に迷い込んでしまった、ということなのだろうと思う。
青豆はどうだったか。天吾はどうだったか。ふかえりの「空気さなぎ」原作ではどうだったか。
これまで正しいと信じてきたことを、一旦疑ってしまうと、その問題意識の芽生えは不可逆だ。
自分が正しいと信じていることを疑うこと。これが目覚めでなくて何であろうか。
疑いを抱かず、素直に常識や習慣や先人の教えを信じることは、普通は「正しいこと」に思える。
しかし、それに自分の心や身体が抵抗を感じたのに、その自分の感覚ではなく、常識や習慣や先人の教えの方を信じ続けるのは「思考停止」だ。
その思考停止が罪なのだ。
これが、中原中也の詩にある「自恃」の意味だ。
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。
(中原中也「山羊の歌」 盲目の秋)
青豆は、老婦人の言葉に違和感を感じながら、考えるのを止めて信じてしまったのだ。
自恃がなかったがために、罪を犯してしまったのだ。
追記(2011/10/21)
ずっと村上春樹の「1Q84」について考え続けている訳ではない。
しかし、村上春樹の「1Q84」は、まるで現代の聖書のように「あらゆる問題」の根源と、それに立ち向かう術を示しているように思えてならない。
今日は、ふと【リトルピープル】と【ビッグブラザー】の間の位置に【リーダー】を置くことによって、自分自身の中で何かが明らかになったような気がした。その記録。
A) 【ビッグブラザー】は、すべてをシステム化して支配する者。
B) 【リーダー】には、その段階により多くの階層がある、と仮定。
1) ビッグブラザー化するリーダー (自らの意志に反して素直な子供を蹂躙してしまうリーダー)
2) 殺されること望むリーダー (青豆と対峙した時のリーダー)
3) 苦悩するリーダー (体中に激痛を感じるリーダー)
4) 新しいリーダー(の可能性) (父と対峙し、乗り越えた天吾)
5) 弱い父・疑われる父 (天吾の父)
C) そして【リトルピープル】にも(思考のために)階層を設けてみた。
1)成長する「小さなもの」 (「空気さなぎ」をリライトした後の天吾や、Book3の青豆)
2)自らの罪に責任を取ろうとするリトルピープル (Book2の最後で自死を選ぼうとした青豆)
3)思考停止のまま権威に従い、罪を犯すリトルピープル (殺人を犯した青豆)
4)形骸化した権威に従うだけのリトルピープル (思考停止、無個性、匿名性)
5)善でも悪でもないリトルピープル (ごく普通の人々)
6)純粋な「小さなもの」 (赤ん坊、素直な子供、10歳の頃までの天吾と青豆)
大きな流れは、この階層の一番下(C-6)から上昇する方向にある。
純粋な子供は、10歳くらいから思春期にかけて、【オトナ】や社会に「疑問」「抵抗」を感じるようになる。
しかし、そこで思考停止してしまうと、(C-4)の段階で成長が停止する。
すると、上から言われるまま行動し、大きな間違いを犯してしまう。(C-3)
その罪に気づかない者は(C-3)に留まる。自らの罪を自覚すると死を選ぶしかない、と感じる。(C-2)
その段階を「愛によって」乗り越えたり、「先人の残した物語」で追体験できた者は(C-1)成長する。
(C-3)から(C-5)程度のままオトナになった場合、(B-5)の「弱い父」にしかなれない。
(C-1)の段階を経た者は、(B-4)「新しいリーダー」になる可能性を持つ。
しかし、リーダーには苦悩する運命が待っている。(B-3)ここからは抜け出すことができない。
様々なリトルピープルの声を聞いている内に、必ず【弱いリトルピープル】(C-5,6)を傷つけてしまう。
いくら注意していても、(C-3,4)あたりのリトルピープルが【弱いリトルピープル】を差し出してくる。
その受けた傷によって【疑問・抵抗】を感じ、自らが罪を犯す前に、そこから抜け出そうとする場合がある。
(この典型が「ふかえり」)
このような階層を仮定して、「1Q84」の物語を読み解くと、【天吾と青豆】の成長が腑に落ちる。
その2人が手を携えて「あたらしく生れようとする小さなもの」を大切にすることに意味がある。
この階層を登っていく成長においても、キーワードは自恃(自らを頼る)だ。
傷を受けたとき、疑問を抱いたとき、抵抗する心が芽生えたとき、これらの時こそが成長のチャンスだ。
しかし、「新しいリーダー」まで登ったとしても、そこに待っているのは「逃れられない苦痛」でしかない。そこまで登りながら再度、思考停止したリーダーとして居座れば、【ビッグブラザー】になってしまう。
ここでの結論は、【時代は常に「新しいリーダー」を求めている】という、言葉にすれば陳腐なものだ。しかし、ここにこそ、「新しいリーダー」が生まれ続けなくてはならない理由がある。
ここでちょっと「実社会の問題」に当てはめてみる。
大阪府の橋下 徹 知事。彼は今どの段階にあり、自らの使命と役割をどのように自覚しているのだろうか?
私自身はこれまで、今の大阪には平松市長ではなく、過激ではあっても、橋下氏のようなリーダーが必要なのではないか、と漠然と考えていたが、非常に尊敬している内田 樹 先生や、大阪を最も理解し愛していると思われる江 弘毅 氏が橋下批判を行っているのを知り、判断に迷いが生じていた。
両氏のの批判は、私の言葉に直せば「橋本氏はビッグブラザーになることが明らかだ」ということか。
しかしそうだろうか。私は単に歴史の必然として「新しいリーダー」が必要だと思うし、橋下氏自身は「苦悩するリーダー」になる自覚を持ち、さらには「殺されることを望むリーダー」を目指しているような気がしてならない。
2011/8/12記
「1Q84」の話題も減ってしまった。しかし、この「1Q84」こそが、現代社会の本質的問題を痛烈に指摘し、その対処方法を明確にした非常に重要な【現代のための物語】であることに気づいている人はどれくらいいるのだろう。
「面白かった」「面白くなかった」などという大半の読者の感想は、この物語のごく上っ面のストーリーに対するものに過ぎない。
ここに書いておく。「1Q84」を終わらせるには、柳屋敷の老婦人が死に、タマルが老婦人に対する忠誠を捨て、自分の意志で「正しいこと」を行うようにならねばならない。
何度でも書いておく。柳屋敷の老婦人は【旧財閥】であり【富裕層】であり【既得権益を持つ者】だ。そしてタマルは【高級官僚】であり【公安警察】であり【暴力装置】なのだ。
このように読まねば、「1Q84」の真髄の1/3にも届いていない、というべきだろう。
ふだんの私は、こんな傲慢な物言いはしませんが、この「1Q84」の読まれ方だけは、読者が村上春樹にまったく追いついていないと思う。
2011/8/31記
「リトルピープルの時代」という本が話題になっているが、こんなツイートがあった。
「村上春樹は、あくまでも68年的な問題意識の中にあって、21世紀的な世界に想像力が追い付いていない。象徴的なのが『1Q84』に登場する現代的な「悪」のイメージがいまだに新左翼やオウム真理教に依拠していることです」(「読書人」8/26号、宇野常寛
そうなのか?読まずに批判はしないが、読めずに批判してないか?
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