いちばん昔の記憶。

私が今も鮮明に思い出せる最古の記憶は、ひいおじいちゃんのお葬式だ。
…といっても、当時の私は幼稚園生で、ひいおじいちゃんの死に顔も覚えていない。私の中のひいおじいちゃんは、昔も今も額縁の中の笑顔のご老人って感じだ。

私の、明確に残っている最古の記憶は、
「泣いている母を慰めようと背中をさすったら、怒られた」。


ひいおじいちゃんが死んだことも、死ぬってどんなことかも、当時の私は知らなかった。だから私は全く悲しくなかった。が、お母さんが泣いてるとは一体どういうこっちゃ。
泣いてる人がいたら慰めるのが普通だろう。それが母親ならなおさら。

純度100%の気遣いと心配、慰め。幼いながらに。
でも普段の私がおてんば娘すぎたのか、
母は「遊んでほしがってると思った」(10年後、本人談)ようで、なぜか怒られた。向こう行ってなさい!みたいな。

こっちは慰めようとしただけなんですが…!?

この衝撃はなかなかのものだっと思う。
慰めるのを明確に拒絶された。心配してるだけなのに。しかも、母親に。
受け入れられないならまだしも、拒絶されるというのは想定外。話と違う。


…とこんな感じで、私の人生は、すっごく悲しい記憶から始まっている。



そんなところから始まった私の人生。とことん、こんな感じだ。

なんか悲しそうやし慰めてみるか、知らんけど。
それに対して酷い返答が帰ってきたとしても、私はそれを飲み込める。

理由もわからず拒絶された幼稚園生の私は、「なんかよく分からんけど、しょうがなかった」って思うしかなかった。
だって私は悪いことしてないもん。幼稚園で習った通りに人を慰めただけ。
でも、拒絶されてしまった。じゃあそれはどうしようもないんだ。
正しいことをしても、期待通りに帰ってこないこともあることを、私は幼稚園生にして学んだ。

自分が正しいと思っているなら、それに対する反応が思ってたのと違っても自分が正しい行動をとった結果だからしょうがないかって。自分が間違っていたならごめんなさい。それでおしまい。だから、悲しむことはあれど怒ることってない。


それとはまた別に言うなら、私は「怒る前に許す」のが染みついている。
どこまでも、自己投影的なものの見方をしているから。

嫌なことをされたとして、

もし私が同じDNA、同じ環境で育てばそうなるだろうし。
この人はそれは人を不快にさせ得るって教えてもらわなかったんだろうな、それを守っている大人がいなかったんだろうな。じゃあしょうがないや。
ってもう無意識のうちに考えて許すんです。

もしかしたら、私の中のどこかに、似たような部分の罪悪感があるのかもしれない。
その原因のすみっこのほうに、正しいはずのことが拒絶されたこともきっとあるんだろう。だから私は怒らない。怒れない。
怒る前に嫌な気持ちはすーっと引いていく。

最強のアンガーマネジメントです。諦めて許す、というのは。


…なんて言いながら、小4とかのときは家出しまくってました。
(せいぜい夜の一人散歩ぐらいのものでしたが。)
めっちゃすぐキレたりもしました。

今思えば、あれはある種の愛情確認だったな。
その時から、実はあんまり怒ってなかった。でも癇癪起こせば構ってもらえる。家出したら探してもらえる。みたいな。

ちなみに家出は5回前後ぐらいで終わりました。
理由は単純、親が探してくれない寂しさを知ったから。
慣れてきたのか、ほっといた方が私には効くと思ったのか、真相は謎です。
それもまた一つ、諦めたことですね。
求めてた通りの愛情は受け取れないこと。その痛みは残ること。

キレたりグレたり、ふと疑問に思ったことを口に出して母に泣かれたり、父にスリッパでしばかれたり。
いろいろした結果、怒りの感情、無駄じゃね?に落ちついた今の私です。


よくないことかのように書きましたが、実際私は私をだいぶ気に入っています。怒らないのは大人っぽくていいじゃんって思ってたし、今でもアンガーマネジメント最強の大人ってかっけぇ…!って思うから。
あとシンプルに周りに迷惑かけずらいから、良い。怒りは伝染するからね。自分のためにはなっても周りのためにはならないからなぁ。

…なんて思った、とある授業中でした。

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