雨が見える
穏やかな雨。
以前、気功をしていた。タントウ功を毎日1時間半ずつ2回練習。体調が悪い時を除いて基本的に毎日。
雨のイメージが度々見えた。
というか、室内で練習していたら、室内に雨が降るような具合。イメージというには、ちょっと現実に近すぎる。私にだけ見える雨。あまりよくないな、と思った。
先生に聞いたら
「悪い感じがしないなら気にしないでよろしい」
ということだったけど、私には世界と自分の境目が時々なくなる、という問題があって、人と共有できないような世界の中に行くのは、あまり良いことにはならない、と思った。そう思ったまま続けた。健康になりたかったし、練習を重ねることは楽しいことでもあった。
練習を続けていると、雨が降る。
気感は強くなってきたものの、私の身体はどんどん冷たくなり、精神的消耗が激しくなっていった。普段練習していたのは私だけで、他の生徒は和気あいあいと、人との交流を楽しみに来ることが目的のようで、私も、できればその輪の中に入りたいと思った。女が集まってお茶をするのは華やかで楽しい。
私は何ごとにおいても、発散拡散傾向がある。枠を設けて中に留める、ということができない。仕事中には、人に対して枠の作成を援助し、割とそれはできる。外から外壁の構築の補助はできる。だけど、内側からでは、一体全体どのぐらいの場所に外壁を作ればいいものか全くわからない。
外壁、或いは垣根をつくるイメージワークは、いくつかのセラピーでやったけど、どれも私の混乱を深めて、結局私は外壁工事をしたことによる消耗と、取り組み方さえ判らなかった落胆と、何度目かの挫折と無力感、困惑、何が問題なのかを掬い取れない焦燥、そんなものにまみれて潰れた。私はどうにかしようと必死で、そのぶんだけ、私にはどうにもできないのだ、ということが自分自身に証明され続けた。だたっ広い野原にひとりきり。ひとりきりの惑星で垣根を作るなんて途方に暮れる。何でもいいから、温かい存在、生きている存在と出会いたい。CQ、CQ。他の惑星に信号を念じる。
女同士の他愛ないお喋りは、楽しかった。でも、ある瞬間に、そこへは行けなくなった。みんな明るく明快な人だった。「いつでもまた、いらっしゃい」とメールが来たけど返事ができなかった。「もう、お会いできません」なんていうメールはおかしい。恋人ではあるまいし。説明できるような理由は何もなくて、ただもう、楽しいお喋りを楽しむ力がなくなってしまった。
練習もほどなくできなくなった。
「発散しないで、留めておくように意識して」
と言われたけれど、まるでどうしたらいいのか分からなかった。私の理解の外にあることを言われているようだった。どうしてもイメージできない。
私にしたら、高濃度の塩水につけられた細胞のように、浸透圧の違いで、どんどん何かが出て行ってしまう。同時に全体が縮小していく。
雨が降ると、雨の音が身体中に入ってくる。
かつて私は、健康で大らかだった。規則正しい健康な日常を送り、犬が好きで、バナナとみかんが嫌いだった。ピアノが上手で、芸大へ行くか、或いはピアノは趣味に留めて医学部へ行くか、そんなことを期待されていた。私はその頃バッハが好きで、「狐か猫になりたい」と思っていたけど。