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母とおっぱい
ある中国人ママが母乳育児を拒否した。彼女はミルクで育てることを強く希望し、決心は硬かった。赤ちゃんに一切母乳を与えようとせず、ミルクを飲ませた。その結果、そのママのおっぱいはひどく腫れ、強い痛みを伴った。担当助産師が彼女の涙ながらの訴えを聞き、医師に相談した結果、彼女に母乳分泌を抑える薬を処方することになった。
この母乳を抑える薬というのは産科ではよく使われる薬である。例えば、母子感染のリスクがある母親だったり、抗がん剤治療中であったりして、母親が子供に母乳を与えられない場合、おっぱいが強く張ることがある。そうすると、母親が自分で絞ることになるが、これが非常に労力と時間を要するし、同時に痛みも伴う。そのため、薬で母乳分泌を抑えることになる。
このママが子供を産んだ頃は、ちょうど中国国内で粉ミルク事件があった影響で、日本の粉ミルク人気が過度に集まった時代だった。夫の住む日本に、中国から嫁いできたママはもちろん、粉ミルク派だった。しかし、日本に長く住んでいたパパの家族、特に夫の姉は、日本で母乳育児の指導を受けたこともあり、弟の嫁が勝手に薬を飲んだことにとても腹をたてた。そして、誰が嫁に薬を渡したのか、こちらに問いただしてきた。
中国の人は正直である。義姉は怒りを包み隠さず、ナースステーションに来ると、大声で中国語をまくしたてた。私は一生懸命に中国語で説明した。助産師が薬を渡したのは悪意があったからなどではなく、母親の希望に沿った結果であること、母親が粉ミルクで育てたいという強い希望を持っていることなどを伝えた。
中国の家族や親戚は、日本の家族と比べ、お互いの距離感が近い。日本だったら、個人の自由と言われてしまいそうなことでも、平気で意見したりする。なんでも遠慮なしに話せていいなと感じる面もあるが、時に中国人同士でもコミュニケーションが案外取れてなかったりすることもある。この中国人ママも、結局は夫の家族に自分の気持ちを伝えられないまま、ミルク育児を自分だけの判断で選択した。
母乳育児にするのか、ミルクで育てるのか、日本人なら母親自身が決めることだ。私も含め、日本人の助産師たちはここまで大騒ぎになるとは全く予想していなかった。こちら側が良かれと思ってした対応であっても、文化が違えば全く違った意味を持つ。中国語がただ話せるだけではダメ、その国の文化や事情など相手側を総合的に理解しようとする姿勢が大切である。私は全身に冷や汗をかきながら、身をもってそのことを学んだ。
その後、この中国人ママが無事退院した後も、何度か彼女の義姉が赤ちゃんの写真を見せに病棟を訪ねてきた。私のしどろもどろの中国語でも、なんとか役に立ってくれたと感じるとともに、一旦心を許してくれたら、相手のことをいつまでも気にかけてくれる中国人の義理がたさにも心を打たれた。このときの経験は今でも特に印象に残っていて、「大きな困難ほど、大きな力になる」と気付かされる出来事だった。
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