からっぽの財布と、たくさんの思い出 中島敦の「貧乏キャンプ」
キャンプメンバーでいちばんオシャレ?だった敦。
食事作りでは戦力外で、薪(まき)を拾う係だった敦。
しかし、食料調達の達人だった敦 etc.
敦と飯塚氏、その友人たちの登山&キャンプ旅行は、まさしく「珍道中」というもので…⁉
introduction
今回、ご紹介するのは中島敦の会会報第一号( 1978 年)に掲載された記事、飯塚充昭氏「中島敦さんとの交遊」から、1933年8月「赤城山~四万温泉キャンプの思い出」です。
この文は、1977年の「敦の会」でのお話を筆記し、飯塚氏にチェックいただいたうえで掲載したものでした。
横浜高女の敦の同僚・飯塚充昭氏は、登山部、写真部を指導。敦の家の隣に住み、プライベートでも一緒に登山やヨット遊びに出かけるなどしていました。横浜時代の敦の写真の多くは、飯塚氏が撮影したものです。
飯塚氏が語る、1933年8月のキャンプの思い出話では、元気にキャンプを楽しむ、生き生きとした24歳の敦の姿を見ることができます。
飯塚充昭氏のご家族の許可をいただき、皆様にご紹介いたします。
横浜時代の敦をよく知る人物の貴重な証言を、どうぞご覧ください。
※掲載をご許可くださった飯塚充昭氏ご家族に感謝申し上げます。
※「中島敦の会」により加筆、訂正された部分がありますが、文意は変更していません。
※(編集注)と(引用)は、中島敦の会によるものです。
「中島敦さんとの交遊」飯塚充昭
1933年8月中旬 テントをかついで出発
中島さんとの交遊で一番印象深いのは、彼と行ったキャンプ旅行です。約一週間、テントを担いで無銭旅行まがいのことをしました。赤城山から四万温泉というコースでした。
メンバーは私と中島さん、私の友人である長谷川ともう一人、矢代という男の4人でした。長谷川は私の学校時代の級友で、当時武蔵高校(現在の武蔵大学)の先生をしていました。
中島さんは冬の間は喘息で苦しんでいましたので春・夏にはそれを取り戻すという意味で一緒に出掛けることが多く、よくヨットに乗ったり水泳をしたりしたものです。中島さんの自宅の花作りも、冬から解放された喜びからなさったことだと思います。
敦の仕事は「薪拾い」
その当時は、キャンプといっても、今の人のようないい恰好ではなく、まして、私達のような無銭旅行まがいの者とでは準備も装備もまったく違いました。食料は米、缶詰、海苔の佃煮と福神漬などを持ち、味噌汁やカレーライスを作って飯盒炊飯をしました。
私達は服装の点で、どうせ行くのは山なのだからと 履き古したズボンなどで行ったのですが、中島さんは実にきちんとした整った恰好をしていました。それが今でも印象深いです。
テントを張ると、中島さんは御飯を作ることは得意ではないので、 せいぜい薪を探してくることだけが任務でした。長谷川は器用で、よく御飯を作りました。私は火をおこし、中島さんは薪を拾うだけでした。
テントを張って泊ったところからお話しますと、まず赤城山です。
テントは赤城山に張ったのですが、湖畔に張ってみたところ、その夜、雨が降り始め「こりゃおかしい」と気がついて、テントから覗いてみるとあたりが水で溢れている。こいつはひどいと荷物をそのままに、近くの旅館を夜中に叩き起こして避難しました。
猿ヶ京から法師温泉へ 旅館でも自炊
その次にだんだんと山を下って猿ヶ京に行きました。この時には、テントは 荷物になるので東京に送ってしまい、食事だけ自分達で作って宿を借りることになりました。
そこで、猿ヶ京の「笹の湯」に頼み込んだところ、 夏のことで部屋はいっぱいでしたが交渉の結果、布団部屋へ泊まることができました。四人で電燈のない布団部屋に泊まり、食事は旅館の庭で飯盒飲飯をして食べました。
敦、ちゃっかり食料ゲット
その次には法師温泉へ行き、一軒しかない宿屋と交渉して、お客さんが使い終わったあとのピンポン室へ泊めてもらいました。勿論、床は板張りでしたが、多少の夜具は持っていたので何とか我慢しました。
この時、中島さんが旅館の台所へ行って卵を四つ持ってきて、それを御飯にかけて食べました。中島さんは卵の代金は宿賃と一緒に支払うのだと思っていたらしいのですが、なんとこの卵は宿賃の請求書にははいっていなかったのです。そこでこの卵は食い逃げしてしまったことになったのです。この功績はひとえに中島さんのタマ物です。
(引用)法師温泉から、敦は妻・タカへ葉書を送っています。
その法師温泉の上に三国峠がありまして、ちょうど上州と越後の境になっているのです。そこで、ちょっと面白い格好で写真を撮りました。テントを合羽代りに菅笠をかぶった中島さんの国定忠治スタイルです。 そんなことをやりながら次第に四万温泉境に入って行きました。
四万温泉 豪華旅館でドキドキヒヤヒヤ?
この四万温泉での出来事はこの旅行の圧巻でした。
ここで長谷川のかつての教え子に「田村旅館」という大きな一流の旅館の息子さんがいて、何とかこれを利用できまいかという下心でもあったのでしょうか。ともあれ、その田村旅館の玄関に入ろうとしたのですが、我われが余りにもみすぼらしい恰好をしていたので気が引けて、入るにも入れませんでした。
「こりゃ駄目、他の所へ行こうよ」と、ダラダラ坂を下りて行ったが、何処へ行ってもそんなボロボロの恰好をしている者など泊めてくれず、とうとう宿なしになってしまいました。そこで仕方がないと街の下の方から田村旅館へ電話をしてみると「先生様どうぞおいでください」。旅館の自家用車(黒塗りのセダンのデラックスでした)が迎えに来るというので、そこに立って待っていました。
ところが、その迎えにきた運転手が、私達を見ても「私が迎えに来たのは、あんた達なんかじゃない」というのです。
私達があまりにもみすぼらしい恰好をしていたので、とても「先生様」には見えなかったのでしょう。
半信半疑の運転手をなんとか納得させて車に乗りこみ玄関につきました。しかし何せ着ているものが、ただでさえボロなのに、この一週間の山歩きでさらにボロになってしまっていたので、宿のほうも玄関から上げるわけにはいかず「どうぞお風呂場からはいってください」と云われました。
お風呂に入って浴衣に着換えてしまえば一般の客と変わらないので、堂々と廊下を歩けるわけなのです。ところが、さすがに部屋がいっぱい(満室)なので、家の方が使っていらっしゃる部屋、つまり箪笥や仏壇のある、ご家族の部屋に泊めてもらったのです。その時には、私達には全員の持ち金を合わせても精々帰りの電車賃ぐらいしかなかったので、できればただで泊まりたいと思っていましたので、客室でないほうが交渉もしやすいだろうとも思いました。その日は久しぶりに畳の上で寝ることができました。
その晩、旅館のホールでは人々が踊りをおどっていました。私達も構わないから踊ろうじゃないかということで、たしか「四万の湯煙り」という新民謡ですねえ、野口雨情がつくり 中山晋平が作曲したものですが、それを皆で踊りました。
その晩、金もないのに二の膳つきの料理とビールが出てきたのですが、「このビールは安くないぞ、相当取られるぞ」ということで、とにかく腹は空いていたので御飯は食べることにして、ビールは止めておこうと、とうとう最後までビールの栓は抜きませんでした。
しょんぼり敦…そしてお会計の顛末は
さて、翌朝は帰るんだけれど、宿代はどうしようかということになり、まさか黙って帰るわけにもいかず、恐る恐る長谷川が「宿代はいかほどですか」と尋ねてみると…この写真はそのちょっと前の写真です。
みんなどうしようかとしょげ返っている様子です。中島さんが一番しょげています。
すると旅館の人は「いいえ、先生方ですから代金など戴こうとは思っておりません」という返事でした。
私達は「あ、良かった」とほっとしたのに中島さんは「まあ、そうおっしゃらずに払わせてください」などと、うまいことを言っていました。実際のところ、払う金など全く無かったのにねえ(笑)。
そうすると、「昨晩のビールは惜しいことをした」などと、秘かに囁いたものでした。
なにはともあれ、ありがたかったことです。
epilogue
写真を見るたびに、三、四十年前のことが懐しく思い出されます。四人でよく写真をとったのですが、一人がシャッターを押すと被写体は三人となり、昔からの迷信で「三人で写真を撮ると誰か亡くなる」と云われていました。今考えてみますと、長谷川は事故で死んでしまい、そして中島さんも、もうこの世になく…この写真(前出・田村旅館での写真)の三人の中で、生き残っているのは私だけになってしまいました。
まあ、私の話はこの辺でご勘弁願います。
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