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横浜・2つの中島敦記念碑1
日本近代文学史にその名を刻む中島敦。
33年という短い生涯のうち、
24~32歳の約8年間を過ごした地・横浜は、
彼にとって思い出深い土地だったでしょう。
「敦先生を記念する記念碑を横浜に建てよう」という思いから、
中島敦と縁ある人々の手によって2つの記念碑がつくられました。
2つの記念碑、「中島敦文学碑」と「中島敦歌碑」について、「中島敦の会」の記録を中心に、その成り立ちやエピソードを紹介・解説いたします。
その1「中島敦文学碑」
所在 横浜市中区元町汐汲坂 横浜学園附属元町幼稚園敷地内
※見学には申し込みが必要です。
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1「中島敦文学碑を建てる会」発足
中島敦が横浜高等女学校に勤務していたのは、1933年(昭和8)4月から1941年(昭和16)3月(6月に正式に退職)。
中島敦が学校を去り世を去ったあと、横浜高女(横浜高等女学校の略。以下同)ゆかりの人々、とくに中島敦の教え子だった卒業生達の間では、「敦(トン)先生」をなつかしむ声が絶えなかった。
そして敦が受け持ったクラスの卒業生(1937年卒)が開いた「中島先生を偲ぶ会」が中心となり、「文学碑をつくろう」という計画が動き出した。
そして1975年(昭和50)春、「中島敦文学碑を建てる会」が発足した。
同窓会、旧教職員の集まり「元町会」、そして横浜学園関係者が発起人となった。同年6月に示された「建碑の趣旨」には発起人百六十五名の名が記されている。岩田一男(英文学者)、渡辺はま子(歌手)など中島敦の旧同僚、敦の教え子の卒業生など縁深い人たち、そして敦の遺族の名前がずらりとならんだ。
「建てる会」の建碑の趣意書の呼びかけには多くの賛同が集まり、次々と寄付金が集まった。ほどなくして目標の制作資金額に達し、建立実現の運びとなった。
発起人~中島敦の同僚たち
「中島敦文学碑」発起人代表の田沼智明は横浜学園高等学校校長(当時)。
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 7, 2022
岩田一男氏は著名な英文学者。横浜高女に勤めた後、一橋大学の教授になり、テレビやラジオの語学放送を担当し、英語教育の第一人者でした。「英語に強くなる本」は大ベストセラーに。写真は1934年卒業アルバムから。 pic.twitter.com/3rRfMeZsn0
渡辺はま子は日本の戦中・戦後を代表する歌手のひとり。デビュー直後、横浜高女で音楽教師を勤め、中島敦と同僚でした。1934年卒業アルバム等の写真には、やはりオーラが。当時は社会常識として「若い男女が親しく口をきくのは好ましくない」とされたためか、敦とはま子の交流はあまりなかったよう。 pic.twitter.com/oRPMADbw6f
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 6, 2022
ゆかりの梅35(1933年12月刊)掲載の職員写真。後列右から岩田一男(のちの英文学者)、中島敦。中列二人目渡辺はま子(歌手)。その他にも有望な教師たちがそろっていました。この同僚たちが、1975年の中島敦文学碑設立の協力者となりました。敦と渡辺はま子が一緒に写っている唯一の写真(多分)。 pic.twitter.com/eQruDAx0ih
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 6, 2022
2文学碑制作 思わぬ苦労とは!?
記念碑を建てるにあたり、「敦先生」とゆかりの深い場所ということで、彼の勤めた横浜高女の地が選ばれた。
横浜高女の校舎は、戦争末期1945年5月の横浜空襲により焼失し、
敦がいた職員室も、教えた教室も跡形もなくなってしまった。
その跡地の一部には、横浜学園付属元町幼稚園が建っている。
「中島敦文学碑」はその一角につくられることとなった。
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記念碑の石は中島敦ゆかりの埼玉県を流れる荒川上流から運んできた緑輝石。ちなみに、この石を手配した丸徳石材店の主人の姉妹も横浜高女の卒業生だった。
石は、碑文の部分は重さ2トン、台座部分は5トン。碑全体の高さは約2メートルあった。
碑文は、高校の教科書に取り上げられ、多くの人に知られている名作『山月記』冒頭の一文が選ばれた。
その理由は、「高等学校国語教科書に広く掲載されて、最も親しまれている文章がよろしかろうと考え」、「山月記」としたのだが、ここで大きな問題が判明する。
敦の「山月記」の原稿を写し石に刻んで碑文とするのに、かんじんの「山月記」原稿がどこにもない。出版社へ預けた後、所在不明、行方不明になっていたのだった。
そのため、当時、中島たか夫人が所蔵していた「弟子」の原稿を使い、「山月記」碑文に必要な文字を探し、ひとつひとつ抽出していった。ない文字は同じ部首、つくりがある漢字を分解して組み合わせて字を作る、というたいへんな作業がおこなわれた。
※その作業には渡仲利喜史氏(野毛「スタジオロマン」写真師)の多大なご尽力があった。
※「山月記」原稿は残念ながら現在も行方不明。
こうして各方面の協力により、「中島敦文学碑」は完成した。
元町の中島敦文学碑碑文は、山月記』」冒頭の文が選ばれましたが、制作開始時に大きな問題が判明。肝心の「山月記」原稿が行方不明だった! そこで「弟子」の原稿を使い、碑文に必要とする文字を探し抽出、ない文字は部首、つくりを分解して組み合わせて字を作る、というたいへんな作業がありました。 pic.twitter.com/EfwIZDMxJF
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 29, 2022
3「この元町をいついつまでも」文学碑除幕式①
文学碑が完成したその年の暮れ、1975年12月7日。
横浜学園付属元町幼稚園の園庭の一角で、「中島敦文学碑」の除幕式が行われた。
中島敦の妻・たか夫人をはじめとした遺族。
岩田一男、飯塚充昭、山口比男の元同僚。
そして中島敦のかつての教え子たちが集った。
一同は思い出話に花を咲かせ、今は亡き中島敦と横浜高女の日々に思いを馳せた。
中島敦の命日、1942年(昭和17)12月4日から33年が経っていた。
1975年(昭和50)、中島敦文学碑除幕式が行われました。主席者は中島敦夫人のタカさん、横浜高女の卒業生、旧職員など。横浜学園校長の田沼智明(当時)と山口比男氏(敦の元同僚)のあいさつの後、敦のお孫さん2人の手で除幕されました。(神奈川新聞1975年12月8日記事より) pic.twitter.com/f1Q8qTDFGO
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 7, 2022
「会報2号」(1980年5月発行」にその様子が記録されています。
「中島敦文学碑」建碑式での敦夫人・中島たかさんのお礼の言葉
「主人の大好きな横浜、しかもこの元町の灯りともし頃、
汐汲坂、支那町(※中華街のこと)、
素晴らしい所へ主人の霊はおかれて居りますと思いますと、
本当に嬉しゅうございます。
どんなにか、あの咳をしながらでも、この海の見える丘を、
またこの元町をいついつまでも
喜んで散歩をしているような気がしている次第であります」
中島敦文学碑建碑式の記念写真。碑の右側で黄色のバラの花束をもっているのがタカさん。その右側ひとりおいて岩田一男先生。岩田先生と横浜高女時代の敦との交流は深く、建碑はもちろん、創立期の「中島敦の会」にもお力を貸してくださいました。 pic.twitter.com/n8CU6JEIW2
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 8, 2022
4「この場所で敦先生とキャッチボールを」文学碑除幕式②
「中島敦文学碑」建碑式で飯塚充昭氏(元同僚)のスピーチで、文学碑にまつわる、敦とのエピソードが披露された。
※飯塚氏は、横浜高女時代、中島敦とスポーツを楽しんだ同僚の教師。
野球、ヨットやキャンプなど、数多くの敦との思い出話を持っていた。
そして、この日は、文学碑が建てられた場所は「敦とキャッチボールを楽しんだ場所だ」と明かした。
「私たち、(中島)先生と一緒にキャッチボールをしたところなんで、(文学碑の)あの場所にはおそらく先生の足跡がいっぱいあるところなんです。こんないい場所はちょっとないと思っております」
「中島敦文学碑」で敦とキャッチボール!飯塚充昭氏(元同僚)(会報2)
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 9, 2022
「私たち、(中島)先生と一緒にキャッチボールをしたところなんで、あの場所(文学碑)には先生の足跡がいっぱいあるところなんです。こんないい場所はない」写真は職員野球チーム。前列右から2人目が敦。学苑7(1936年7月発行) pic.twitter.com/VKQu3EUzU2
山手や元町を散歩をしたり、同僚とキャッチボールをしたり。
女学生たちを教えたり、笑ったり。
さまざまな思い出と、中島敦への親愛と尊敬がこめられた文学碑。
敦が世を去った80年後の今日も、汐汲坂の途中から、港のある街を見おろしている。
中島敦文学碑は1975年12月7日に除幕されました。敦の死後、33年が経っていました。敦が生きていたら66歳。もし、生きていてくれたら、という思いは除幕式に参加した皆が同じだったでしょう。写真は関係者に配られた建立記念ハガキ。 pic.twitter.com/YzJamZQQaa
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 29, 2022
※その2「外国人墓地 中島敦歌碑」記事は、来年春頃にまとめる予定です。