敦のルーツをさぐる 中島家の書の世界・後編
中島敦の生家・中島家の人々の書を見ながら、「家学の伝統」を考えてみるお話の後編です。
前編と同様に、中島家の資料整理、調査をなさっている中島敏枝さんに解説していただきました。
なお、これらは私見であり専門的な分析ではないことをご了承の上で、ご覧ください。
また、紹介できる書は限りがあり、解説どおりの特性があらわれた書をすべて掲載できてはいませんが、それぞれのテイスト、個性を感じていただければと思います。
※文中の解説は書籍「評伝・中島敦 家学からの視点」
村山吉廣著・中央公論新社(2002年出版)を参考にしました。
今さらながらの
本文の用語MEMO
※楷書 点や線(画)を正確に書く書体。
※草書 曲線が多く,流れるように書く自由な書体。
≪トーク参加者≫
中島敏枝さん
中島家の資料整理、保存に長い間尽力されている。文中、🐯マークのついた太字部分は敏枝さんの発言。
中島敦の会会員カエル
Web担当。書道に関してはまったくの素人。発言は🐸マーク。
では、中島家の3世代、撫山、斗南、玉振に続く、残る二人の手蹟を見ていきましょう!
トーク4「愚直系」田人
●田人筆 寄せ書きの一文と敦写真付記
田人は、親戚からは軽んじられてかわいそうだったね、と桓は言ってますが、愚直に生きた人で、それは文字にも表れてます。
田人は、きちんと書を習ったと思います。親戚に出した手紙は巻紙が多いです。田人は、中島家の中でも字は上手です。「撫山中島先生終焉之地」の碑文は田人の書です。
この田人が書いた碑文は、誰もほめてくれてないですが、素晴らしい楷書だと思いますよ。
表の文字は隷書みたいな感じですが、碑文は明らかに楷書ですよね。書家として、すごい感じです。
やはり、田人は、かなり臨書してますね。兄弟中で一番、したのではないでしょうか。
この「撫山碑」の字は唐代の顔真卿ばりのところもありますね。まあ、写真では文字が判断できないですが。拓本をとらないと
詳細はわからないです。
竦(玉振=おヒゲの伯父)と敦の霊璽(神道で故人を祭る際の依り代。仏教の位牌にあたるもの)も田人の手によるものです。
こちらは公開はできないですが、田人が書いた敦の霊璽「敦命」(あつしのみこと)「昭和十七年十二月四日没享年丗四」は圧巻だと思ってます。
この文字を、田人はどんなに涙を堪えて書いたものか、と思います。
そして撫山の隷書は、田人がいちばん継いでます。でも、田人の隷書には、撫山の書のような“遊び”は、ないですね。撫山の隷書は、装飾的なのです。田人は、ひたすら真面目な隷書です。
やはり気になるのは、「撫山は誰に師事したのか?或いは誰を手本にしたのか?」です。書だけにかぎっては、亀田三代ではないみたいです。亀田三代の文字と似ている時代はありますが、撫山は自分の書を確立した感じです。
田人の兄弟姉妹は、習字をするのは、当たり前だったでしょう。
ふつうは、先生のお手本を見て書くのですが、残っているものから見て、先生の真似だけではなく、拓本を臨書(手本を見て書くこと)したと思います。田人の遺品に拓本の断片があります。
石に彫った文字の拓本を切り貼りしてあります。お手本として使ったものでしょうが、断片しかないのです。朱で文字が書いてありますが、これは田人の文字です。あわただしく引っ越しをしたので、これしかみつかりません。
拓本写真は田人氏遺品の「孔宙碑」(漢泰山都尉孔宙碑)の裏面。
「孔宙碑」は後漢王朝の石碑で、隷書のお手本として名高い。孔宙は孔子の子孫です。
よく調べられましたね。この碑を建てたお弟子さんの列記のようですね。かなり摩耗してますが、筆の入れ方、とめ、はらいをこの拓本から想像するわけですよね。…ウーン、です。
中国の拓本を臨書して書を学んでいた、というのも漢学者の家・中島家の伝統としてふさわしいですね。
習字は、退屈なものとも言えます。ひたすら臨書をするわけですので。
「干物を見て、元の魚を思い出すように書きなさい!」と、私は書の先生に言われましたが、そういうことを一所懸命になさった人が上達するのです。
そんな退屈な臨書を、敦ならしないでしょうね。自由にのびのびと書いたのではないでしょうか。ヤカマ(端=斗南先生)も正座して習字をしているイメージはないですね。なにしろ跳びまわっている人です。
トーク5「天然・オンリーワン系」敦
田人家の漢籍は、田人が中国に注文して買った本が多かったですね。敦は幼少期に祖父(撫山)宅で暮らし、小学校に上がる頃に父と暮らすようになりましたが、常に漢籍は身近にあったのでしょう。
田人の残した漢籍に、敦の書きこみもあるのです。「恐ルベキテク二シアン」などの書きこみは、敦の他には考えられないですね。
※敦は蔵書・杜工部詩集(杜甫の詩集)の「春夜喜雨」詩の題に〇をつけ、この書きこみをしている。
「中島敦文庫の漢籍から考える唐人李徴/日本近代文学会関西支部 2023春季大会」高芝麻子先生の神奈川近代文学館中島敦文庫 漢籍の書きこみ調査より
●敦筆 漢詩「酒泉大守席上醉後」「飮中八歌仙」より
敦は、書道を正式には習った様子はないですね。
この文字は、天然です。
田人の兄弟姉妹は父・撫山のもとにありましたから習わざるを得ない環境でしたが、その子供たちの世代、敦の代になるとそうではなくなったのでしょう。
敦は臨書はしてないと思います。それに崩し字がないです。書を正式に習った人は、どこかで文字を崩すものですが、原稿などを見ても、それがない。
中島家は唐様…中国風の書道の家ですが、敦は、中国書道史の誰にも似てないようです。日本の書家にも似た人がいないみたいです。自己流もまたいいですよね。
素人の私が見て思ったのは、敦の書は止めがあっさりしてるというか、止めてない印象があります。横線など…
敦の書は、トメとハライが軽いですね。はねる前に、チョットちから(力)を溜めるものですが、敦のは、軽々としてます。
敦の文字は他の者と違って縦長ですね。
「縦長」の字と言えば、唐の太宗の書は縦長でのびのびとして実に美しいですが、「縦長」と「のびのび」は敦と同じですね。唐代の名品と比べるのはどうかと思いますが、敦の書には習わない人のとらわれない良さがあるのかもしれません。
それでは、あえて言うなら、敦のトメの軽さは「太宗風」ということでしょうか。書は習っていなくて、天然だけれど(笑)
そこまでほめるほどでは! 素人の良さですから。太宗の書は、のびのびとしてますが、基本はちゃんとしているはずです。太宗は王羲之を手本にして熱心に習ったようです。太宗の書が刻まれたもとの碑は失われ、拓本がフランスにあったりするのですよね。不思議です。
トークまとめ 中島家の書の背景と特徴とは
中島家の書について、少しまとめますね。
一、亀田鵬斎・綾瀬・鶯谷に学んだ。
一、書風は唐様(中国風)である。
一、中島家の者は、師の真似だけではなく、漢の石碑の拓本等の臨書などをしたようだ。
亀田家の流れで唐様ですが、亀田家の草書と似ているのは撫山先生だけでしたね。その撫山先生も後には変化していましたし
撫山は久喜に来てからは草書で書かなかったようです。東京博物館にある亀田鵬斎の楷書と中島家の者の隷書風の文字は似ていないのです。中島家のそれぞれも似ていません。
その時に応じて書体が違うのですね。
鵬斎の立派な楷書が残っています。撫山の隷書はおだやかで、少し装飾的ですね。楷書も隷書もわかりやすい書として同一と見る方もいますが、鵬斎と撫山をくらべますと鵬斎の書は「気骨のある」書、撫山の書は装飾的でおだやかな書という感じがしますね。
鵬斎氏はあの、読むのがむずかしい草書のイメージが強かったのですが、立派な楷書を書くこともわかりました。
ここで私見を述べますね。
拓本の臨書は、「魚の干物を見て、元の生きている魚に思いを馳せること」である、したがって想像力が必要である。
中島家の者の書が若書きのころから枯れて見えるのは、古い隷書の拓本(干物)を手本としたことにある? たんたんとしていて、けれんがない。
ただし、ヤカマ(端=斗南先生)の書は、他の者の書とはいささか趣きが違う。
どこが? 臨書を怠った書に見えるような…?はなはだしく自己流である。無手勝流である。
しかし案外、可読性のある書である。(読める文字がほんの少しはあるということです(笑))
中島家の書は枯れているように見えるのが特徴なのですね⁉
撫山の隷書は、鵬斎の楷書より枯れた感じはありますね。装飾的ではありますが、静かな感じです。
そして、斗南先生(端・ヤカマ)が家族とはちょっと違うというのも「らしい」ですね。そういったところは敦と似ているというか。
どうでしょう? 敦は似たくはないかもです。敦は、ヤカマのような老人にはなりたくないと書いてますよね。口やかましいから「ヤカマ」ですからね。敦のいとこたちがつけたあだ名でしょう。渋谷・道玄坂に集まる家があって、いとこたちは仲良しだったのですね。
あだ名は、ヤカマのオジサマ→ヤカマさん→ヤカマ、とだんだん敬意の度が下がっていますね(笑)。
余談ですが、「売家と唐様で書く三代目」って川柳がありませんでしたか?
つまり、御家流…日本流の書が全盛の江戸時代に唐様で書くのは、家業をおろそかにして無駄ごと(に思えること)にうつつをぬかす商家の穀潰しだと揶揄したのですね。
確かに御家流は、江戸幕府の公用文字に決められ、寺子屋から武家の御右筆、草子その他に広く使われました。あまりに御家流が流行ったために、俗化しましたが。
商家のお金持ちの坊っちゃんも、三代目になりますと、お金儲けはしたくない、学問をしたい、それで中国の書風で文字を書くようになる…この川柳、それって撫山のこと?(笑)
撫山先生は十二代目で、それにお店はつぶしていませんけれど(笑)
つぶすのとは少し違いますが、撫山は店を親戚の者に任せて家を出、江戸を去るのです。浅草のお寺の墓じまいをして、あとを人に託したのは、おヒゲをはじめとする子供たちですが。「夕日の如来」という仏像も託したようです。この如来の由来はもうわからないですね。
中島家は駕籠を作って売るという職業だったようです。使った道具などは保存されているようです。注文を取って作るわけですから、商才も必要ですね。撫山にはその仕事はムリだったようです。
もっとも、駕籠製造販売という職業は、時代とともになくなったのですね。
現在でも、中島家の浅草のお寺には、その子孫が詣でているようです。
撫山の墓は埼玉県にあります。
エンディング
「父祖伝来の儒家」中島家は、当然、書も唐様(中国風)であった、と再確認しました。
中島家の方々が手本とした中国の拓本の提供および興味深い解説をしてくださった中島敏枝様に感謝申し上げて、この雑感トークを終わらせていただきます。
繰り返しになりますが、これは雑感であり、専門的な分析・解説ではないことをご了解ください。
さりながら、長い間、中島家の書、資料に向き合ってこられた方の見解は、価値ある私見であると考え、記事にまとめさせていただきました。
ご精読ありがとうございました。