摂食障がいの克服251【すれ違い】
以前も書いたことのある、村上春樹さんの『ノルウェイの森』。
いつも、好きなドラマや小説のことを書いているので今回も内容についても、書いております。
ワタナベくんは、親友のキズキと直子3人で高校生のころによく一緒にいたのですが(キズキと直子はカップル)、キズキはこの後自ら命を断つのです。
大学生になったワタナべくんは直子に再会し、直子を真剣に愛すように。しかし、直子はキズキのことを乗り越えられません。もうこれが読んでいて切なくて辛くて。
ワタナベくんは何とか直子を救おうとする、救おうというより一緒にいることで、ワタナベくんも救われていた。
直子と対照的な存在として描かれたのが、ワタナベくんが大学で知り合った緑。生き生きと描かれており、しかしながら緑も本当に苦労して生きてきたのです。美味しいご飯を食べたいがために自分の腕を磨くしかなくて、お金を貯めては調理器具を買ったり。父親は入院中。母親はいなかったように思います。早くになくされたのですね。
ワタナベくんには、陽気に語りかけてくる。
直子はいつも、素の状態でワタナベくんに接する、消え入りそうな直子。
このころ、ワタナベくんには大学の先輩の男性がいて、この男性がフィアンセがいながら、フラフラしているのです。フィアンセは初江さんだったと思いますが…。ワタナベくんまで、そんなフラフラに付き合う日があるのです。(この日のことが書きたくてノルウェイの森に辿り着いています💧)
直子はその後容体が悪化。
その後と言える簡単な出来事ではなく、もしかしたら、キズキの。
キズキに何があっても私なんかは、生きてほしかった。こんな何十年も前の小説のことを思い出して涙ぐむ私…。
容体が悪化した直子は京都の施設に入ります。そこでは、患者同士がペアになり部屋を与えられて、日中は外でみんなで作業したり。今で言う開放病棟の、ペア版?のようなところです。
直子のペアはレイコさん。
レイコさんは、普通に幸せに結婚生活を送っていた、けれども…ピアノの先生を自宅でしていたことにより、ある出来事でパンクする、そんな過去を持ちます。
ワタナベくんは、この施設に訪れ直子と過ごしたり、レイコさんとも仲良くなったり。
しかしながら直子はよくならなかった。
直子はよくならなかった。
キズキと同じ道を選ぶのです。
ワタナベくんが、一緒に暮らそう、そう言ったのに。
私の見解ですが、直子はそうすることにより、ワタナベくんも、キズキのように、キズキの後を追ってしまうのではという、そんな気持ちからワタナベくんとの人生を選ばなかったのでは、と。
何ヶ月も病むワタナベくん。
しかし、緑にふと会いたくなる。
そんな小説なのです。
大人になってから読むとより一層深い。
闇の象徴の直子
生の象徴の緑
どれだけ辛くても、たとえば希望がなくても、やっぱり死を選ばれると、残された者たちは、そんな小説…たとえば希望がなくても、もしもキズキが生きていたら、初江さんも生きてくれたら(フィアンセの元を去り、結婚しますが、のちに命を断つ)
ワタナベくんもレイコさんも、これから人生は続くわけで。本当に本当に生きてるだけでいいから、周りはそれで救われるから…そう思ってしまうのです。
昨日のハチャメチャ探偵長では、良かれと思ってしたことはその人にとってはそうではなかったっていう比喩だったのですが…
このワタナベくんが、先輩とふらふら遊びに行き、ふたりの女の子と仲良くなって、最初は4人で話していて、その後は美人さんで先輩が、美人でない方をワタナベくんが、そんなペアで暫し過ごして、その後、トレードというか逆の組み合わせでお話ししてみる、そんなシーンがあるのです。
先輩だから、美人さんと。
後輩だから美人ではない方の女性と。
何年も何年も経ってから(だと思う)。
先輩が『あのときのふたり、美人じゃない方が、よかった。あたり』(全然村上春樹先生の書き方とは違うと思うけど💧)ということを言うのです。
何が言いたいかというと、一見正しいとか、そっちだと思われてることが、実はそうではないとは、多々あると思うんです。
ハチャメチャ探偵長では、おじいちゃんのことを考えれば『俺が文化遺産にしてやった』などという犯人(多分)は、間違っていたかもしれない。
でも、今本人にありがた迷惑だなってことも、私はそちらが正しかったというか、正しいであってほしかった、そう思うんです。
その比喩が自分の中でなぜか、ノルウェイの森の、このふたりのこの夜の、後々の会話だったのでした。
比喩的には間違っているかもしれないけれど。
ノルウェイの森は、読めば読むほどに好きになりました。
今日はお休みなので旅に出ています。
移動時間に真面目に英語の文章読みました。
旅先で歌った、ジャム。
グリーンのキセキも。いい曲だなーって。