#9 (番外編)「死」と「意識」

 とある年の、とある月の話・・・。


「ちょっとまずいかもしれませんね」
 診察室の若い医者が検査結果を見て、すこし重い声で言った。
 「もう一度検査します。3週間後に来てください。あと、ネットは見ない方が良いでしょう。悪いことばかり書いてありますので」

 大きな病気の「疑い」をかけられてしまった。(病気の内容はここでは記さない。同じ病気で闘っている人を思うと、軽々しく公表するのは避けたいからだ)
 大丈夫でしょうけど、一応念のために、と言われて実施した検査。身体はいたって元気。病名を告げられてもピンとこない。だからネットを見るな、と言われても見てしまう。そこには「悪性***」と書いてある。「なんだよ、***って・・・」。
 検索を繰り返し、事の重大さがだんだんと分かってきた。
 悪い事柄と言うのは、ふいに襲ってくるからタチが悪い。だからショックも大きく、さすがに午後からの仕事は休むことにした。
 平静を装っていたが、無意識のうちに心にダメージを負っていたのかもしれない。夜中に急に気分が悪くなり、トイレに駆け込んでしまった。
 翌日の職場ではごく少数の人だけに事実を伝えた。万が一のことも考え、抱えている仕事が引き継げるように整理もした。
 
 「死」が急に間近に感じられた。
 「死」に関する様々な文章には、今まで多く接してきた。理解はしても、どこか他人事だった。今は違う。その文章のひとつひとつの解像度が増したのだ。そういうことかと、どんどん腑に落ちるのだ。やはり「死」を意識しないと分からないことなんだな、ということが理解できた。
 
 その頃、知人が青森の恐山に行くという話を聞いた。霊域と知られる恐山。自分の代わりにあの世に触れてくれるのだろうか、とも思った。別の知人が、私は伝えていないのに、同じ病気で亡くなった人の話をしだした。どちらもただの偶然なのに、それを必然と捉える過敏な自分になってしまった。
 
 そして体に不思議な変化が起こった。 
 心が落ち着いて、何が起きても動じなくなったのだ。
  
 なにかを達観したような状態。
 
 今なら何が起こっても怖くはない。
 
 そういえば、以前に親が自宅で亡くなって救急車で運ばれときに、絶望感の中で、頭だけは研ぎ澄まされた冷静さがあった。 
  
 人は「死」を意識すると何か変わるのだろうか。
 昔の行者は死を意識したと思う。ブッダの苦行もそうだ。比叡山の千日回峰行、古神道の様々な行法、即身仏・・・。ヨガのシャバアーサナは屍のポーズだ。
  後日、周囲の何人かに感想を伝えた。ヨガの先生は「チャクラが整った状態」と言われた。産後に自身の身体が危険な状態になった女性は「自分もその時は達観していた」と語ってくれた。
   
 1か月後、結果は経過観察となった。とりあえず緊急性が無いと聞いて安心した。
 そうしたら、その心地よい緊張感がすっかり消えてしまったのだ!

 この1か月は何だったのだろう。またあの感覚を取り戻したい。どうすれば良いのだろうか。そればかり考えている。
 何か新しい世界を覗いてしまったように思える。(了)


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