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[小説] ひとの名前をつけられたいぬ

ドアを開けた瞬間、犬に吠えられた。

アパートの向かいの家のトイプードル。
朝の10時頃から正午まで、庭に放し飼いにされているのだ。
私は犬が好きだ。
この子が吠えているのは、攻撃性からではなくて、かまってほしいから。
出がけにこの子がいるとなんとなく、「行ってくるね」と声をかける。

私が去ると、プードルは名残惜しそうにキャンキャンさけぶ。

だけど、今日はいつもと違った。60代くらいの、飼い主の女性が様子を見に、庭に出ていたのだ。

「おはようございます」

それから、プードルの飼い主の方とそろそろ来る台風の話、残暑が厳しすぎる話など、世間話をいくらかした。
私は、いつもプードルに声をかけていること、今後も遊んでも大丈夫か尋ねた。

「もちろん、遊んであげて。じゅんちゃんは首輪が苦手なんだよね」

そう言って、女性はプードルのからだをワシワシとなであげた。

「へえ、じゅんちゃんって名前なんですね」

じゅんちゃん。

反射的に、どうしてじゅんちゃんなんですか?と聞いた。

すると、女性の今までの柔和な表情に険が立ち始めた。

そして言わなきゃわからないのとでも言いたげに

「そんなの、松潤に似てるからに決まってるでしょ」

と、ピシャリと掃き出し窓を閉め、プードルと共に家の中へと消えてしまった。

え〜。
そんなまずいこと聞いた?

私は少し居心地の悪い思いを噛み締めながら、出かける用事を思い出し駆け足で駅へと向かった。

「その人、相当松潤が好きなんだね」

用事というのは、友達とランチをすること。

「でもさ、大好きな芸能人の名前、犬につける? なんか失礼じゃない」

私がそうぼやくと、友達がスマホで松本潤と検索して、画像を見せてきた。

「どう、その犬に似てる?」

私は国民的スターの彼を、当たり前に知ってるし、好感を持っているけれど、ファンというわけでもないし、そう、まじまじと見つめたことはなかった。

「たしかに、猫より犬寄りの顔はしているけども…」

「確かにさぁ、じゅんってひくよね。まさきとか、かずなりじゃないだけまだマシってだけで。なんかキショいかも」

「ねえ、人名つけるにしても○○太郎とか○○助だったらちょっとはマシだったんだろうけど。なんかガチ感が出てるというか」

「うん…」

私は、もう一度犬と同じ名前をつけられた彼の顔をまじまじと見つめた。

髪のカールした感じとか、確かにプードルに似てないわけではなかった。

「だけど、人間じゃん」

腑に落ちなかった。

午後3時くらいに家に着いた。

向かいの家を見渡す。

他人ん家をジロジロ見るものではありません。

そう言われて育てられているからか、今までまじまじとこの家を見たことはなかったが、大きな二階建てだ。

洗濯物は、50代の女性が着るような衣服、レギンスとブラウスやインナー、あと玄関マット。

男性の匂いはしない。

たぶん、この家には、じゅんちゃんの飼い主の女性しか住んでいない。

だけど、プリントの煤けたけろけろけろっぴのフェイスタオル、おさるのもんきちのバスタオルが広げて干してある。

このタオルを使っていたであろう人は、もうとっくに成人済みで、別に家庭を持っているということは、容易に想像できる。

物持ちがいいな。
おさるのもんきちなんて久しぶりに見た。

もしかして、思い出の詰まったこのタオルを、捨てるに捨てられなくて、プードルのじゅんちゃん用に使っているんじゃないだろうか。

それにしても、庭には、植木鉢の欠片とか、使っていない錆びた雨樋が無造作に置かれたりして、とても愛犬にとって安全な場所とは言えない。肉球に傷がついたらどうするんだろう。

『じゅんちゃんは首輪が苦手なんだよね』

首輪が苦手だから散歩の代わりに庭に出して放っといているのかな。

そして、この家には車が無い。

そのときぴゅうっと生暖かい風が吹いて、洗濯ばさみもろとも、けろっぴのタオルが私の方まで飛んできた。

「あっ」

地面に落ちたタオルを咄嗟に拾い、私はこれをどうしようか迷った。

届けてあげよう。

もう水気のなくなったかさかさのタオルをたたもうと広げると、縫いつけの名前タグが目に入った。

「おおもり じゅん」

私は、何度洗濯しても洗濯しても意固地に留まり続けている、そのインクの集合体を見て、真正面から届けることをあきらめた。

庭の柵にそのタオルを洗濯バサミで留めた。

もう一度、大きな生暖かい風がタオルを揺らした。

その風は、台風がいよいよ来ると教えていた。

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