人間じゃなかった私が人間になって人間らしい苦しみを知るまでの21年間

自分を綾波レイか長門有希だと思っている女による人生の振り返りに、少しばかりお付き合い下さい。
私はもうすぐ生まれてから22年になりますが、ここ5年ほどはずっと自分の苦しかった過去の記憶を言語化することに思考を費やしてきました。

自分のことも外の世界のことも何一つ分からず、真っ暗な闇の中で息を潜めながら一日一日をやり過ごしていた幼少期、今思い出せばとにかく呼吸が苦しく、私の目に映る世界はいつもモノクロでした。
そして中学、高校、大学と少しずつ大人になって、少しずつ生きるのが楽になっていく過程で自分のこの苦しみは何なのだろうと考えるにつれ、私はSF設定のキャラクターに自己投影するようになったのです。

苦しい今を嘆いて「小学校の頃に戻りたい」などと言う人は多くいますが、私の人生は記憶の限りでは幼稚園の頃から苦しいものでした。
自分の感情も人の感情も分からない。言葉は理解できる上に、活字中毒ということもあってかなり幼少の頃から読み書きができて本も好んで読むものの、人に何をどう話していいのか分からない。どの場面でどんな表情を作ればいいのか分からない。人がいる空間でどのように手や足を動かせばいいのか分からない。「ありがとう」や「ごめんなさい」のような簡単な言葉でも、話そうとするとのどがせき止められたように声が出ない。両親は優しいけど、私のことを理解してはくれない。学校にも家にも居場所がない。目に映るもの、耳に入るもの、全てが自分の感覚を圧倒してくる恐怖の対象。朝起きてから寝付くまで(幼稚園の頃から不眠症だったのでそもそも全然眠れなかった)、極度の緊張状態が続く。
最近になってようやく言語化できるようになった幼少期の苦しみは、ざっとこんな感じです。家庭環境が悪かった訳でも、いじめにあっていた訳でもない。それなのに当時の私は毎日気がおかしくなるような感覚で一日一日を耐え、現在の苦しみと一生こうだったらどうしようという未来への不安にも襲われ続けていました。

そんな私の人生が少しずつ、少しずつ変わり始めたのは小学校の終わりから中学の始まりにかけての頃でした。この頃から私は自分なりに外の世界とコミュニケーションを取るシステムを導入し始めたのです。
私は「周りにいる人間のコミュニケーションを観察、実際の対人の場面で真似をして使用し、フィードバックを行う」というサイクルによって、感情は伴わないながらも形だけ会話の真似をすることができるようになっていきました。
私が進学した中学校は中高一貫のミッション系女子校で、無法地帯だった小学校とは違って周りが穏やかで優しい子ばかりだったということが変わるチャンスにもなっていたのだと思います。
幼稚園や小学校時代、暗くて無口な本ばかり読んでいる優等生という立ち位置だった私は、それとは正反対に明るく優しく朗らかで、誰からも好かれるような人格を自分の脳内に設定し、そんな人間が言いそうなこと、取りそうなリアクションを想定して出力することを繰り返していました。

そんなことを続けるうちに私は、高校に上がる頃には周りの人間と円滑にコミュニケーションを撮ることができるようになっていました。ただ、「自分の感情を認識し、それを言語化して相手に伝える」ということがまだ分かっていなかった私はその場その場に合わせた適切なリアクションを繰り返すだけのロボットのようなことをしていたに過ぎません。
「綾波レイは感情がないのではなく、感情を知らないだけだ」というような説明を聞いたことがありますが、この説明は私にとってこの上なく腑に落ちるものでした。私は幼少期から感覚が人よりも敏感でしたが、それを認識することが下手でした。例えば、子供が寒いと感じた場合、周りの大人に「寒い」と言って何らかの助けを求めるか、自分でコートを着るかといった行動をとるかと思います。しかし寒がりな私は、寒さも寒さによるストレスも人一倍感じていると言うのにそれが「寒い」ということであるという認識ができず、ただ震えて固まっているか突然不機嫌になって両親を困らせるかといった反応しか出力できなかったのです。

しかし、中高6年間の周りの人との濃い時間や、大学に上がってからの新鮮な日々を通して、私は少しずつ「感情→発話」というプロセスを内面化することができるようになりました。
今の私は、仲のいい友達と楽しい時間を過ごしていると感じた時に「楽しい!」と言うことができます。幼稚園児でもできる簡単なことだと思われるでしょうが、これは私にとっては本当にすごいことなのです。綺麗な景色を見て綺麗だと感じ、写真を撮るという外的なリアクションを出力できるようになったりもしました。昔はどれも一様にモノクロだった街の景色が今の私の目には一つ一つが新鮮で、面白い物のように映ります。

そして大学2年目の去年、私は今までの人生で一番強烈で、幸福で、それでいて胸が張り裂けそうになる1年間を過ごしました。

「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希は普通の人間のような感情機構を持たないと思われる情報統合思念体という存在でしたが、キョンやハルヒといった仲間たちのと強烈な時間を通して徐々に自分でも感情を持ち始めます。そして劇場版「涼宮ハルヒの消失」ではそんな長門有希が感情を持ってしまったがために葛藤し、苦しみ、大事件を起こすに至ってしまいました。

私にはこの時の長門有希さんの気持ちが痛いほどよく分かります。

中高時代、表面上のコミュニケーションが取れるようになった私は周りに恵まれたこともあり、普通の女子高生らしく友達と喋ったり遊んだりということをしていました。しかしあくまでもそれは表面上のもので、私はきちんと人間と向き合えてはいなかったのです。思春期の人間が集まる中学や高校といった空間では面倒な人間関係がお約束ですが、私にはそういった人が人に抱く複雑な感情の網のような広がりが見えていませんでした。

しかし大学2年になって、私は唐突に人間関係の尊さや苦しさを知ることになるのです。

大学に入ってから1年が過ぎ、私は少しずつ、周囲の人間と深い人間関係を築くことができるようになっていました。
まだ感情があまり分からずロボットのような原理で人間の振る舞いをしていた頃、私は話す相手の興味や(不躾な言い方にはなりますが)知能レベルに合わせて話し方や話す内容を変えていました。とにかく円滑でわかりやすいコミュニケーションが私にとっては楽だったので、知っているのに知らないふりをしたり、察しているのに分かっていないふりをしたりということは日常的におこなっていました。
しかし大学に上がってからは、最高学府とも呼ばれる特殊な環境の特性もあってそういったモードに切り替えずとも話せる人間と出会えたり、またいい意味でも悪い意味でも純粋で真っ直ぐな子ばかりだった中高と比べると私のように病んだ、複雑で厄介(それでいてみんな優しくて面白い)とも言える人間と分かり合えることが多くなったように感じます。
そんな事情もあって私は、次第に周りの人間と感情的な体験を共にしたり苦しみを分かちあったりといった時間を共にできるようになったのです。

しかしこれは同時に、人間関係で悩み苦しむことの始まりでもありました。詳しくは書きませんが、ちょっとだけ聞いてください。
信頼していた大切な相手に付け込まれて犯罪まがいのことをされ、それでも嫌いになれず半年間我慢した挙句に耐えられなくなって数ヶ月前に自分の方から絶縁してしまいました。酷いことをされた当時は認識できなかった「嫌だ」という感情が半年間遅れで心を襲い、今でもフラッシュバックします。
私を好きになってくれた人がいて、その人を好きになって、半年以上付き合った挙句あちらの方から振られてしまいました。その人と付き合っていた頃は毎日がふわふわとしていて、自分の苦しい過去や今の自分の苦しい部分も全部無かったみたいに居られたのに。
私の大好きな友達二人は仲が良くなくて、彼女たちがお互いを悪く言う度に心が引き裂かれそうになります。
私の信頼する友達は私のことが好きみたいで、でも私はその気持ちには応えられません。どうしたらいいのでしょうか。

こんな訳で、私は今ごくごくありふれた人間関係の中で誰もが経験するような苦しみを味わっています。
1年前までの空っぽで透明だった自分(東京事変さんの『透明人間』の歌詞に初めて触れた時は正にじぶんのことだと驚きました)と今の自分があまりにも別人で、戸惑うことばかりです。
感情を身につけなければ、人とちゃんと向き合わなければこんな苦しみを知ることもなかったのに。
それでもこの1年間で手に入れた何ものにも替え難い大切な現実が今の自分を支えてくれていて、良いものでも悪いものでも私に感情を教えてくれた、私と関わってくれている(くれた)人ひとりひとりに「人生に色をつけてくれてありがとう」という感謝の気持ちを持つことにしようと思います。

綾波レイさんだって長門有希さんだって幸せになりたい。 ようやく人間になれた私も、これから自分の身に降ってき続けるであろう人間的なイベントにワクワクドキドキしながら毎日を過ごしたいです。
それはそうと、振られて2ヶ月経ってもまだあの人のことが愛おしくて辛いので応援のほどよろしくお願いします。


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