「惜しい人をなくした」2020/2/18

・「惜しい人をなくした」という言葉をよく耳にする。
生前の人物に対する最大限の賛辞として贈られるのだが、この表現にとても違和感がある。

・野村克也氏が亡くなった。
誰しもが知る存在で、野球好きにとって彼がどれくらい凄い存在かというのは簡単に形容できない程の人物だ。
まして死の直後に語る時は尚更なんじゃないか。そういう時に「惜しい人をなくした」という言葉は便利なように見える。体的なことに少しも言及しなくても、その人物についてよく知っている感じを醸し出せる。

・だが「惜しい人」がいるということは「惜しくない人」がいるということになるのでは。
「この人には死んでほしくなかった」「死ぬなら別の人の方が良かった」穿った見方なのはわかってるがそのように聞こえてしまう。

・人間の価値とはなんだろう。
他の人には出来ないことをした人は確かに凄い。でも。
あの人は立派だ。それに比べてあいつは。それに比べたらあいつなんて。

・違和感を覚えつつも自分にとって「惜しい人」と「惜しくない人」がいるのも事実かもしれない。
親しい人は当然として、面識がなくても、私の大好きな宇多田ヒカルと全く知らない人を同列には語れない。
できるだけ多く新曲を出してほしいし、できるだけ長く歌い続けてほしい。

・こう書くと宇多田ヒカルが歌手を引退したり、何かしらの原因で歌うことができなくなったら「惜しくなくなる」ような表現だが断じてそうではない。
今までの功績で判断してしまう。

・なぜ自分がそう思ってしまうのか。なのになぜ違和感を覚えるのか。
その正体までたどり着けない。
誰かに言語化してほしいな。すでに誰かがしてるのだろうか。

・そして私は誰かにとっての「惜しい人」にはなれていないのではないだろうか。
虚しさを少し覚えたところで、だからなんだ、というどうでもよさもほぼ同時に感じた。

・そもそも「惜しい人」になる必要などどこにあるのか。死んだ後に惜しまれることはそこまで重要ではない。
死後評価に何の価値も感じないのと同じだ。
葬式や墓参りは死者のためのものではない。見送る側の折り合いを付ける作業と、贖罪の場だと私は考える。
誰しも自分が救われるために行う行為ではないか。
それにどうせ人からの評価などは正しく測れるものでもなければ、何かと比べるものでもない。

・それよりも自分にとって「惜しい人」を増やしたいなと思った。

・初投稿がこれ?

・まあいいか、あげちゃえ

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