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無気力八方美人人間が出来上がるまで

おひさしぶりです、ねごとです。元気に生きてます。

心療内科で幼少期の家庭環境について相談をしたいときに忘れてしまうことがあるので備忘録的にここに書き記します。第三者に刺さる内容があっても攻撃目的ではないので悪しからず。メンタルの調子がいい時に良かったら見てね!


弟の誕生と両親の離婚

弟は自分と6歳離れて生まれてきた。はじめてできた兄弟、すごく嬉しかったことを今でも覚えている。もちろん今でも仲が良い。

その2年後くらいに両親は離婚した。8歳頃のできごとだ。
要因はおそらく母親の浮気である。(後述あり)

母はたしか専業主婦だったが、父が仕事から帰ってくるとわざと大きな足音を立てながら、自分の部屋へそそくさと入っていっていたことを覚えている。そして幼少期の自分に向けて父親の愚痴をよく言っていた。今思うとありえない話だ。

子どもとしてはやはり両親に仲良くいてほしいというのが本音である。誰しもそうだと思う。はっきりとは覚えてはいないが、母親に気を遣うようになったのはこの頃からだったかもしれない。ここから他人にどんどん気を遣い自我を出せない地獄のような幼少期がはじまった。

この時、まだ8歳の自分は家族がバラバラになる恐怖に苛まれていた。「どうすれば離婚しないようにできるのか」「母親の機嫌を取ればいいのではないか」など8歳が考えるべきでないことをたくさん考えた。それでも両親の離婚はどんどん近づいた。

離婚の直前、父と母は自分に聞いた。
父は「自分がついて行きたいほうを選んで」と。
母は「『私の方についていきたい』と言って」と。
冷静に考えたらなかなかやばい。「私の方についてきてほしい」ではなく子供に自分の意見を代弁させているのである。今思い返してもむしゃくしゃする。しかし、判断能力の浅い若かった自分は母の言う事を聞いてしまった。父の方について行けばまた違う人生を歩んでいたかもしれない。後悔しても仕方ない話ではあるが。

大好きな弟に関しては、母方の方に一緒についていくことに決まった。兄弟が離れ離れになることも心配していたのでこれに関しては良かった。のだが、自分のメンタル悪化に間接的に拍車をかける要因の一つにもなっていた。後述するが弟を守ろうとしすぎてしまったのである。

小学・中学生時代

離婚が成立し、母親、弟、自分での3人の生活が始まった。父とは自宅が近いこともあり、たまに会わせてもらえることになった。

母が精神病を患っていて通院をしていることにこの頃から気づき始めた。癇癪を起こしたり、浪費癖があったり、自分や弟にあたったり、暴言を吐いたり、スピリチュアルにハマったり、色んなことがあった。自分はその都度母親に気を遣いまくった。愚痴聞き役にもなった。さらには、自分より小さい弟に飛び火しないようになんとか取り繕いまくっていた。

母は、勤めている会社の社長の自宅に毎日のように夕食を買って届けていた。そこへは片道20分くらいかかる。自分と弟はその車に同乗し、駐車場で1~2時間待機するといったことがザラにあった。いちゃこらさっさしてたんだろうか。今思えば、おそらく結婚前から付き合いをしていたのだろう。いや、そんなことはどうでもいい。愛人といちゃつくために、子供を車中で2時間も待機させることがあまりにも異常だ。この話は一旦おいておく。

浪費癖や母親の精神状態の悪化が重なって経済的に厳しい状態になり、貧困な生活を送っていた。部屋は散らかっていたし、母親の手料理など食べたことがない。父親から相当額の経済的な援助を受けていたらしいが目に見えて浪費額がそれを上回っていた。今となっては浪費癖はわからないこともないが、「わたしの方についていくと言って」と言わせた人間のやることではない。

そんな環境でまともに勉強や遊びなどできるわけもなく父親の家に遊びに行くことがだんだんと増えていった。2つの家を行ったり来たりする生活が始まった。荷物をいちいち持ち運びするのもかなり大変だった。

この頃から自分は「母親をどうやったら怒らせないようにできるのか」「母親にどうやったら喜んでもらえるのか」、こんなことばっかり考えるようになった。友人関係に関しても気を遣うようになってしまった。
この時の自分はまだ「他人に気を遣いすぎると神経をすり減らす」ことに気づいていなかったのである。

忘れもしない中学2年、前述の事が直接的には関係ないかもしれないが不安障害(のような症状)を発症した。
合唱コンクール練習中の出来事だった。人前で歌うことに対して突然恐怖心が現れ吐き気を催した。練習の最中だったが何も言わず慌てて体育館を抜け出し、トイレに向かって全力で走った。しかし、間に合わず廊下で吐いてしまった。ここから地獄の不安障害との戦いの始まりである。

高専への進学

地頭は良かったので高専へ一般入試で合格し入学した。
推薦は提出物を出さなかったため、内申が悪く受けることができなかった。

ちなみに、高専時代も前述の母の愚行は続いていた。オーバードーズもし始めた。むしろ悪化していたのではないだろうか。

高専1年目、論文発表等に慣れるためであろう授業があった。自分の興味のある技術的なことを調べ、2クラス合同の前で発表するというものであった。発表直前、当たり前のように猛烈な吐き気が襲った。発表会場に向かう前に何度も何度もトイレで吐いた。市販の漢方も飲んだ。なんとか吐かずに発表を終えることができたが、不安が払拭されることは微塵もなかった。

中学の頃は上から5番目くらいの成績があったが、高専に入ってからはむしろ下の方だった。メンタルや環境もあってか、自分に自信を持つことがどんどんできなくなっていった。別にそんなこと考えなくて良いのに。

学年が上がるにつれて人前で発言が求められる機会がどんどんと増えていった。いつか良くなると願いながら望んでいたが、一向に良くならなかった。
研究室での学会発表も自分だけ辞退した。正直悲しかった。

この時に心療内科に通院できればよかったのだが、それができなかった。
「母親が自分を責めて自暴自棄になること」を恐れてしまったのである。
結局、社会人3年目になるまで通院することはできなかった。

そんなふわふわとしてしまった学生生活を送り卒業、社会人になった。

卒業して社会人へ

ガジェットが好きだったので、スマホ周辺機器を取り扱う商社に入社した。
面接ももちろん大変だったし、入社後も嗚咽をしながら向かうことも多々あった。

社会人になり発言が求められる機会はさらに増えた。朝礼、会議、夕礼…。人前での発言がとてつもなく苦手であることを告白しようとも考えたが診断名もなく当時時点では健常者だったため特別扱いしてもらうわけにも行かなかった。

そんなこんなでどんな職場でも馴染めなかった。

病院に行けば良かったのだが、母の姿を見ていた自分はそれができなかった。「自分は母親とは違う」「心療内科に通っている母親が一向に良くなっていない」などいろいろ考えてしまったのだ。

ある時、母から電話がきた。
「弟が宿題をやらない。たくさん薬を飲んだ。弟を殺してわたしも死ぬ。」と。

は??

自分は大声を上げて電話越しで全力で止めた。しかしそれは逆効果になってしまった。気が狂ったように叫び声を上げた母親はそのまま電話を切った。
俺は仕事終わり帰宅中だったのだが、その場で座り込んでしまった。
少し時間を置き、父に連絡を入れ事情を説明した。父は飛んで様子を見に行ってくれた。幸いにもおおごとにはならずに済んだ。
数日間の間放心状態になってしまい、仕事も休んだ。飯も喉を通らなかった。実家から離れてもこんな生活が続くのかと。生きる価値を見失った。
なにかがぷつんと切れたような出来事だった。

ここまでではないが、自殺をほのめかすような電話は社会人になっても何回も続いた。こんなLINEもたくさん来たりした。これを毒親と言わずしてなんというのか。そんな気持ちだった。

ヤバLINE1
ヤバLINE2

病院へ

社会人3年目、ついに病院へ行った。ついた診断名は「うつ病」「社交不安障害」。

なんだか複雑な気持ちだった。母親の様になりたくなかったのに、という気持ちとやっぱりなと納得した気持ち。

休職を繰り返したが根本的解決には至らず、一番長く続いた会社もやめてしまった。傷病手当金を当てにしばらく生活していたが支給期限が近づいてきた。俺は焦った。焦って面接を入れまくった。毎日求人アプリをチェックした。このままじゃ死ぬしかない、と。

結局派遣会社に務めることになった。2024/1/15が最初の出勤日に決まった。
当日、最悪なことが起きた。移動中の電車内での吐き気だ。いわゆる「パニック障害」である。それでも遅れて現場に向かった。職場の人は笑って許してくれたがトラウマは拭えなかった。発病翌週あたりから電車に乗れなくなってしまい仕事に行けなくなった。1ヶ月で退職をした。

俺は更に焦った。近くに大手通販サイトの物流倉庫があるのでことで働くことにした。しかし俺のメンタルはもう壊れていた。電車に乗れなくなってしまっただけでなく、働くことすらままならなくなっていた。ここも1ヶ月で退職をした。

病院を変え、診断を再度貰ったら重度のうつになっていた。CES-Dは51/60点だった。

リスタート?

今後どうするかすごく悩んだ。「生活保護を受ける」か、「実家に帰る」か。
俺は前者を選んだ。

前もって相談をしていたことも幸いし、申請から支給開始まではスムーズだった。今現在も生活保護で生活をしている。

ありがたいことに自分を見つめ直す期間ができた。母との連絡を極力絶つようにした。母との関係は悪くなったが自分にとっては大きなプラスになった。「家族といえど他人、自分をわかるのは自分だけ」のマインドができるようになってきた。自己犠牲をやめられるようになってきたのだ。仕事に関しても焦らずに行こうと思えるようになった。大成長だ。

八方美人に関しては悪いことではない。前述の通り、自己犠牲をやめられれば完璧だと思う。

精神疾患の完治は難しいと聞く。なのでとりあえず寛解(症状が限りなく出ない状態)を目指していく。少しずつやれることを増やしていきたい。

あとがき

深夜2時から4時に書いたので、文章が変なところがあるかもしれません。あったら許してヒヤシンス。

備忘録なので思い出したことがあれば適宜更新するかも?こんなに文章書いたの読書感想文以来だよ~~



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